[#表紙(表紙.jpg)] ワンナイトミステリー 「北京の龍王」殺人事件 吉村達也 [#改ページ]   眠れない夜に──    ワンナイト ミステリー [#改ページ] 目 次  1 紫禁城の龍  2 漢字の消滅  3 双眸の龍王  4 龍の暗号  5 石庭の寺にて  6 「0」の証明  7 疑惑のトライアングル  8 龍王は語る  9 開かれた扉  廬溝橋の縁台将棋 [#改ページ]    1 紫禁城の龍[#「1 紫禁城の龍」はゴシック体]  中国系日本人実業家の周龍平《しゆうりゆうへい》は、鉛色をした北京《ペキン》の冬空を見上げると、ぶるっとひとつ身震いをし、それから襟元のマフラーをかき合わせた。それから三人の連れに向かって「行くぞ」と小さくつぶやき、天安門《てんあんもん》広場をまっすぐ北へ横切って、故宮《こきゆう》の中へと進んでいった。  中国最後の王朝である清《しん》と、その前の明《みん》の時代に皇帝が住む宮城=紫禁城《しきんじよう》であったことから、「かつての宮城」という意味で名付けられた故宮は、現在は、それそのものが巨大な博物館となっている。  映画『ラスト・エンペラー』でその威容は広く世界の人々に知られるところとなったが、周にとっても、五十歳になるこの歳まで、実際の故宮に足を踏み入れたことはなかった。  周の父が生まれたのは、北京の南西郊外にある周口店《しゆうこうてん》。 北京原人の頭蓋骨《ずがいこつ》が発見されたことで知られる寒村で、村じゅうが石炭の香りに包まれ、周の父親の家も、寝具にいたるまで石炭の粉塵《ふんじん》で薄汚れているような状態だったらしい。  二十一世紀に入ったいまでも周口店のあたりはそうした環境はさほど変わっておらず、最近、北京原人の洞窟《どうくつ》観光に訪れた周龍平の知人によれば、ジンギスカンを食べに入った村の食堂でも、テーブルクロスが石炭の粉塵でザラザラしていたという。  周の父親がその村で生まれたのは、まだ北京原人の頭蓋骨が発見される前で、観光収入もない村にいた周の祖父母たちは、かなり貧しい暮らしを強いられていた。  やがて周の祖父母と父親一家は、昭和のはじめに横浜へ渡ってきた。祖父は中華料理のコックという職を得たが、まもなくはじまった日中戦争のために、ひどい苦労をすることになる。  そして終戦後、周の父親は日本人女性と結婚し、ふたりの間に周龍平が生まれた。神戸へ移って貿易商としてかなりの成功を収めていた周の父親は、息子の龍平を日本人として育てることにしたが、「龍」の字を息子の名前に入れたのは、やはり中国人としての感性がそうさせたところがあった。天を駈《か》け昇る龍の力強いエネルギーを息子に吹き込みたかったのだ。  その父が亡くなったあと、周龍平は、父親が築いた莫大《ばくだい》な資産をもとにエンターテインメント・ビジネスの会社を興し、パソコン・ブームの到来に合わせて、コンピューター・ゲームの世界にも参入した。  だが、それがつまずきのはじまりだった。  周はアメリカの大学に留学し、情報科学を専攻した経験もあることから、コンピューターに関しては博学なほうだったが、それを娯楽分野に活《い》かすセンスは持ち合わせていなかった。加えて、五十の大台に届いた彼の感性は、すでに若い世代のそれとはかなりかけ離れたものになっていた。  その結果、ゲームソフトの企画検討段階で、売れるアイデアを蹴《け》り、売れないアイデアに社運を賭《か》けて大量の製作費を注ぎ込むといった、経営者としての判断ミスを繰り返し、せっかく興したゲームソフト会社「龍王」もかなり資金繰りが苦しくなってきていた。個人的には、父親の遺《のこ》してくれた財産が相当額あるものの、会社が倒れれば、それらの蓄えも一気に吹き飛んでしまう。  そんな追いつめられた状況をなんとか打開しようと、彼は生まれて五十年目にして、初めて自らのルーツである中国を訪れた。周が、それまであえて大陸に足を踏み入れなかったのは、父親や祖父母の恵まれぬ時代をふり返っても、自分のプラスにはならないと思っていたからだった。  そうした傲慢《ごうまん》な姿勢を反省し、自分の身体《からだ》に受け継がれてきた大陸人としてのルーツを訪ねようと謙虚な気持ちになれたのが、経営の失敗が教えてくれた唯一のメリットだったかもしれなかった。  中国の旅に同行したのは三人。  死別した先妻との間にもうけた一人娘の香《かおり》。  昨年、後妻として迎えたばかりの水絵《みずえ》。  そして、右腕と頼む部下の九条宏《くじようひろし》。  香は東京の女子大に通う三年生で、ミス・キャンパスにも選ばれた美貌《びぼう》の持ち主だった。その美しさは、周の先妻・香澄《かすみ》から受け継いだものであった。「香」という名前も、美しき母親の名前から一字取っていた。命名の由来はそれだけでなく、将棋の好きな周は、駒《こま》のひとつである「香車《きようしや》」 にも引っかけていた。  香車という駒は、前にはいくらでも進めるが、後ろにはさがれない。たとえ女の子であっても、積極的で前向きな人生を送っていってほしいとの願いを込めて、香車にちなんだ名前を付けたのだった。  実際、香は、父親の望み以上に勝ち気な性格の女の子に育ってゆき、母親を早くに亡くしてからは、強気なキャラクターはいちだんと強まっていた。そんな香を、友人たちは「美しき雌ライオン」と評するほどだった。  娘の香が成人したのを機に、男やもめの暮らしをしていた周龍平は、銀座のクラブホステスをしていた水絵を後妻に迎えた。  水絵は、香よりも一回り上で三十代なかばに差しかかっていたが、コケティッシュな容姿のために年齢よりも格段に若く見え、ときには香の妹と間違えられることすらあった。  父親が水絵と再婚することについて、香は表だって反対はしなかった。だが、「水絵さんのことは、絶対に『お母さん』なんて呼ばないからね」という一言が、娘の心境をよく物語っていた。  周としては、妻に先立たれてから八年つづいた潤いのない暮らしに、そろそろ終止符を打ちたくなっていた。老人になってしまう前に、愛する女性とともに、同じ感動を分かち合う日々をもういちど過ごしてみたかったのだ。そんな心境になったとき、水絵が目の前に現れた。  ただし、結婚しても水絵との間に子供を作ろうとは思わなかった。そこまでしては、香に対しても、天国の先妻に対しても裏切りになるという気がしたからだ。  だが、いざ結婚してみると、水絵のほうがそれでは納得しなかった。  水絵がホステス生活から抜け出して周龍平の妻となる決心を固めたのは、安定した暮らしに身を委《ゆだ》ねたかったからだが、心よりも身体目当てに言い寄ってくる男たちの間を泳ぎ回ってきた日々は、水絵にひとつの強迫観念を植えつけていた。それは「年を取ったら、男たちに見向きもされなくなる」という、老いへの恐怖だった。  満たされた愛を経験したことのない水絵は、年齢による容姿の衰えを迎えたら、女としての寿命はそこでおしまいだと思い込んでいた。だから鎖がほしかった。自分を妻として迎えてくれた周の心をいつまでも繋《つな》ぎ止めておく鎖がほしかった。  それが子供であった。  だが、周は避妊を徹底し、水絵の希望に決して添おうとはしなかった。それは水絵にとって大きな誤算だった。  三人目の同行者、九条宏は、ちょうど水絵と再婚するのと相前後して、周が有名企業からヘッドハンティングした男で、二十九歳という若さで、周の経営するゲームソフト会社「龍王」の常務取締役の地位に就いていた。  もはや自分の感覚では若者相手のゲームソフト・ビジネスはままならぬと気づいた周は、会社経営に若い血を導入するために、ライバルメーカーにいた九条の才能を見込んでスカウトし、いきなり常務のポストに就けて大きな裁量権を与えた。  学生時代にラグビー選手だったガッチリした体躯《たいく》と、体育会の厳しい上下関係で鍛えられた礼儀正しさが、なによりも周に好印象を与えた。少しでも会社に不満があるとすぐに辞める昨今の若者に辟易《へきえき》していた周は、昭和時代のモーレツ・サラリーマン方式が通用する九条に、後継者としての期待を賭けていた。  それはすなわち、一人娘の香の結婚相手としてみなしている、ということでもあった。双方の都合も聞かずに、である。 「すばらしい」  午門《ごもん》と呼ばれる紫禁城正門をくぐり、その先の太和門《たいわもん》を通って太和殿の前に出た龍平は、感嘆の吐息を洩《も》らした。  太和殿は、皇帝が即位するときの儀式など重要な式典が催されるメイン舞台で、紫禁城を代表する建物である。中国最大級の木造建築であるその威容は、前方広場の広大なスケールによっても強調されていた。太和門の前から見ると、太和殿のそばに立つ人間は虫けらのように小さかった。それぐらいの距離感が太和殿前の広場にはある。天安門広場もそうだが、周は、日本ではありえないダイナミックな空間の取り方に、中国大陸に住む人間のとほうもないスケールを見せつけられた気がした。  自分にもその血が流れているはずなのに、いつのまにか考え方が矮小《わいしよう》になってしまっていることに、周は気づかざるを得なかった。たとえばゲームの企画を判断するときも、ともすれば小さな島国である日本発の、ちまちました感覚でヒットを生もうとしていたのではないか。  広大な空間を前にして、そんな反省が周の頭をかすめた。  そして、三人を従えて太和殿の中央正面まできたところで、周の視線は建物のある一点に注がれて動かなくなった。 「そうか……龍だ」  周はつぶやいた。  彼がいま目にしているのは、太和殿へと昇ってゆく階段の中央部分に彫られた龍の石刻だった。  太和殿は最高位の皇帝が儀式を執り行う場所として、その権威の象徴として基壇をきわめて高くこしらえてあり、地面から建物内部までの高さは八メートルにも及ぶ。その段差を昇るため、彫刻に飾り立てられた石の階段が設けられているが、これは通常の階段とは異なる形式になっていた。  段が刻まれているのは左右両端だけで、中央部分は傾斜をもった巨大な彫刻石版になっている。そのサイズは幅三メートル、長さ十六メートルにも及び、そこには雲を昇ってゆく龍の姿が彫られていた。これを雲龍石刻御路《うんりゆうせつこくぎよろ》と呼ぶ。  皇帝は自らの足で階段を昇ったりはせず、駕篭《かご》に乗って運ばれる。その駕篭の棒を両脇《りようわき》で担ぐ総勢十二名の従者が両脇の階段を進めば、まさしく真下の石版に彫られた雲を駈《か》け昇る龍のように、皇帝は宙を浮いたまま雲の上を滑って太和殿の中へと入ってゆくのだ。  その御路に刻まれた龍を見つめているうちに、周龍平の脳に、ひとつの啓示が天から降りそそいできた。 [#2字下げ]≪龍は王なり≫[#「≪龍は王なり≫」はゴシック体]  たしかに周は、その言葉が頭の奥で響き渡るのを聞いた。 [#2字下げ]≪龍王の雲を得たるが如《ごと》し≫[#「≪龍王の雲を得たるが如《ごと》し≫」はゴシック体]  客観的に判断すれば、それは親から授かった名前の中にある「龍」の文字を周がつねに意識していたからこそ導き出すことになった直感であった。だが、彼にしてみれば、雲龍石刻御路の果てにある天空から——具体的な太和殿という建物ではなく、龍が駈け昇っていく天空の一角から——自分の脳に降りそそいできた啓示のように感じられたのだ。 「龍王の雲を得たるが如し……か」  頭の中に浮かんだフレーズを口の中で繰り返すと、周は、一歩さがった後方に控えている腹心の若者をふり返った。 「九条、わかったぞ。龍だ」 「は?」 「我が社を救うことになるゲームソフトのテーマは『龍』なんだ」 「………」 「わからないのか、これだよ、これを見ろ」  九条の釈然としない様子にいらだった周は、白い息を吐きながら、巨大石版に刻まれた龍を指さした。 「ここに刻まれた龍をしっかりと見ろ。いま天が、神が私にヒントを授けてくれたのだ。周龍平よ、おまえは名前に龍の文字を授かったのであろう。そして、その龍が王になるために、会社の名前も龍王としたのであろう。それならば、なぜもっと積極的に龍のパワーを使おうとしないのか、と」 「そういう声が……聞こえたんですか」 「信じられないのかね、私の言っていることが」  奥二重《おくぶたえ》の周は、怒るとまぶたが一重になる。そして三白眼《さんぱくがん》になる。その険悪な目つきで九条を睨《にら》みつけながら、周は自分のこめかみを人差指で指し示した。 「たしかに私の脳髄の奥に、天の声が響いてきたのだ。龍が幸せをもたらすという予言のメッセージが」 「パパ、九条さんにまで押しつけないほうがいいよ、そういうことは」  周の右横から、娘の香が醒《さ》めた口調で割り込んだ。 「なんだ、香。そういうこと、とは」 「オカルトごっこは、ってこと」 「オカルトごっこ?」 「その言い方がムカツクんだったら、ひどい思い込み、って言い直そうか」  ダッフルコートのポケットに両手を突っ込んだまま、香は言った。 「最近のパパはおかしいよ。神のお告げ、天からのメッセージ、頭の中で声がした、金の光が自分を導いた、UFOを見た——そんなことばっかり言ってるから、会社がどんどんおかしくなるんじゃないの?」 「なんだと?」 「仕事が失敗つづきで、社長としての発言に説得力がなくなってきたから、神がかった力を借りるしかなくなったんだよね。自分の代わりに神に言わせて部下を統率しようとしているんでしょ。でも、すっごい情けない、そういうのって」 「香。いくら娘のおまえでも、言っていいことと悪いことがあるぞ」 「ママが生きていたらね」  父親の肩越しに、水絵のほうをチラッと見やりながら、香は言った。 「パパがこうなる前に、ちゃんと軌道修正してくれたはずなのに。もしかして、水絵さんと結婚したのも、天のお告げに従ったわけ?」 「香ちゃん」  水絵が、怒りを下敷きにした笑いを浮かべながら話しかけてきた。 「お告げや占いで私たちの結婚が決まったんじゃないのよ。私とあなたのお父さんの間には、愛があったから」 「ウソ」  白い息をポンと投げ出す感じで、香は言い放った。 「あったのは、セックスだけでしょ。うまいんでしょ、水絵さんて、そっちのほうが。ベテランだよね、男の喜ばせ方に関しちゃ」 「香ちゃん。大きな声で、やめてよ」 「平気だよ。まわりにいるの、たぶんみんな中国人でしょ。日本語わかんないよ。だからね、もっとはっきり言ってあげようか。パパも男だから、欲望がたまっていたんだよね。そのハケ口になってくれる女の人がレギュラーでほしかったから……」 「もうよせ」  周は娘を低い声で叱責《しつせき》しながら、片方の手では気色ばむ水絵の手をつかんで制した。 「我々は諍《いさか》いをするために北京まできたのではない。開運を求めるために、私のルーツを訪ねてきたんじゃないか。おい、九条」  娘と後妻の対立から逃げ出すように、周龍平は腹心の若手常務をもういちどふり返った。 「とにかく私は社長としておまえに命令する。日本に帰国したらすぐに、龍をテーマにしたゲームの開発にとりかかるんだ」 「龍……ですか」  手袋をはめた手で、寒さで赤くなった鼻をこすりながら、九条は気乗りしない返事をした。 「どうしても龍にこだわらないといけないんですか」 「おまえの言いたいことはわかっている。龍、すなわちドラゴンは、ゲームの世界では手垢《てあか》がつきすぎているというんだろう」 「そのとおりです。ドラゴンという単語だけで、もう二番|煎《せん》じの印象がありますし」 「そんな他人事《ひとごと》みたいな評論をするヒマがあったら、一生懸命頭をひねってアイデアを絞り出せ」 「では、なにがなんでも龍がテーマになっていなければいけないんですね」 「もちろんだ」  周は頑として言い張った。 「それ以外では、お告げを聞いた意味がない」 「はあ……」 「それとも、こういう指示を出すことからして、もう周龍平の感覚は狂っていると言いたいかね」 「そんなことはありません」 「だったら言われたとおりにやれ」 「パパ」  そこでまた香が口をはさんだ。 「パパは、若い人の感覚で仕事を進めるために、九条さんをスカウトしたんじゃなかったの」 「そうだよ」 「だったら、なんでもかんでも自分の命令どおりにやらせたら意味ないじゃん」 「テーマは神が決めた。しかし、それを具体的な形にするのは九条に一任しようと言っているではないか」  娘に短く答えてから、周はまた九条へ向き直った。 「もしもおまえの開発したゲームが起死回生の大成功を収めたら、私は全財産をおまえに譲ってやってもいいと思っている。それほど期待しているんだよ」  周龍平のその言葉に、三者三様の表情を見せた。  後妻の水絵の顔には、驚きと焦りが浮かんだ。妻としての財産相続権を、アカの他人に奪われてしまうのか、と。  娘の香の顔には、不快感が浮かんだ。父親の語る「全財産」の中に、娘である自分の存在も含まれていると察したからだった。香としては、九条宏と結婚する気持ちなど少しもないのに。  そして九条が顔に浮かべたのは、疑惑と不信だった。ヘッドハンティングされたものの、こんなボスについていってよいのだろうかという戸惑いが、隠そうとしても表情に出た。 「疑っているな、九条」  薄い唇を微《かす》かに動かしながら、周は言った。 「私が口先だけの約束をしていると思っているのだろう」 「いえ」 「それとも、全財産など大げさに語るほどの金が、もう周龍平には残っていまいと考えているのかね」 「まさか」  九条はあわてて手を振った。 「そんなことはありません」 「だったら、やれ」  周は石版に描かれた雲の上の龍に向かってアゴをしゃくった。 「龍には巨大な群衆を動かす力がある。必ず成功する。やれ」 「わかりました」  周の背中に向かって九条は頭を下げた。  そのとき、「龍の悲劇」は幕を開けたといってもよかった。 [#改ページ]    2 漢字の消滅[#「2 漢字の消滅」はゴシック体]  二十一世紀に入った最初の正月。2001年1月11日午前11時——  スタートを象徴する数字「1」が六つも入ったその日時、東京渋谷マークシティにあるエクセルホテル東急五階のエスタシオン・カフェに四人の男が集まっていた。  ひとりは推理作家の吉村達也。三人は日本将棋連盟に所属するプロの将棋棋士である。年齢順に伊藤果《いとうはたす》、島朗《しまあきら》、 森下卓《もりしたたく》。  伊藤果は、詰将棋という将棋の最終盤を独立させたパズルを作る才能においては、現役棋士の中でベストスリーに入ると言われる屈指の「トリックメーカー」。いわば、将棋界でのミステリー作家ともいうべき存在である。吉村達也も学生時代から詰将棋専門誌『詰将棋パラダイス』の常連出題者であり、また解説者でもあったため、ふたりのつきあいは長く、すでに四半世紀を超えていた。  島朗は、現在将棋公式タイトル戦での最高賞金を誇る読売新聞社主催の竜王戦で、初代竜王に就いた実力派で、将棋界きっての理論派。そして、和装で臨むのが常識であったタイトル戦に颯爽《さつそう》とアルマーニのスーツで登場し、ファッション革命を起こしたことでも知られる。将棋界の若手たちに与えた影響も大きく、また、エッセイでみせる繊細な感覚は、将棋というジャンルを超えて多くの女性ファンをつかんでいた。  森下卓は三人の中で最も長身。「東海の鬼」と言われた鬼才・花村元司《はなむらもとじ》門下で育ち、正統派矢倉戦法を中核に置きながら、つねに新しい戦い方の研究に余念がない学究肌。早起きの島をさらにしのぐ早寝早起きで、深夜型の伊藤とは対極の生活サイクルを送っており、家庭では愛妻家の子煩悩。その人当たりのよい礼儀正しさは棋界一との折り紙付きである。 「じつは、きょう集まっていただいたのは」  吉村達也は、ややためらいがちな口調で切り出した。それもそのはずで、これから三人に持ちかける話は、考えようによっては彼らの本業である将棋を、部分的に否定するとも受け取られかねないプランだったからである。 「新しい形の将棋のスタイルを作ろうという提案なんです」  円形のテーブルを囲んだ三人に向かって、吉村は言った。 「私も三十年以上将棋ファンをつづけてきて、こんなに面白い頭脳ゲームはそうめったにないと思っています。だから、将棋の魅力をもっともっと多くの人に知ってもらいたい。とくに、ゲームを広める手段として最適のインターネットがこれだけ普及してくれば、なおさらです。でも、正直なところ……」  棋士たちの気分を害さないだろうか、と心配しつつ、吉村は思い切って踏み込んだ。 「若い人の感覚からすれば、将棋はオシャレじゃない部分がいっぱいある。たとえば盤や駒《こま》といった道具。マニアからすれば、盤は榧《かや》の何寸がいいとか、駒は御蔵島《みくらじま》産の黄楊《つげ》で、といったこだわりがあるけれども、若い人から見れば、そこからしておじさん臭い。チェスのほうは、装飾品として部屋に飾っておけるセンスのいい盤や駒がたくさん作られているのに、将棋といえば『王将』と書いた大きな駒がドテンと温泉宿のロビーに置かれている光景しか思い浮かばないでしょう。坂田三吉《さかたさんきち》とか村田英雄《むらたひでお》のイメージがあまりに強すぎるのかもしれないけど、いつまでもそれを引きずっていたら、若い層にアピールしていかないと思うんですよ」  同意のうなずきに力を得て、吉村はつづけた。 「たしかに島さんの登場をきっかけに、若手棋士のファッション感覚はずいぶん変わったし、茶髪のタイトル挑戦者も出るようになってきました。それに七冠フィーバーのころにはじまった羽生《はぶ》さん人気で、将棋が以前と較べてずいぶん身近な存在になったのは事実です。でも、ゲームとして楽しく遊べるというイメージは薄いですよね。それはたぶん、プロだけじゃなくてアマチュアにも、強くなきゃ将棋は面白くない、という常識が定着してしまっているからじゃないでしょうか。将棋雑誌を読んでも、技術面ばかりが研究されて、楽しく遊ぶという観点があまり見受けられない。  パソコンの将棋ゲームソフトを作っても、強いソフトを作ることだけに重点が置かれて、ビジュアル的には、どこまでいっても木目の将棋盤にこだわるでしょ。これじゃ、いまの子供や若者は惹《ひ》かれませんよ。でも、若い人たちの間口を思いきり広くしておかないと、将棋人口はどんどん減っていくばかりではないでしょうか」  実際、将棋人口は右肩下がりの減少をつづけている。第二の羽生|善治《よしはる》を目指せとばかりに、熱心な親たちが我が子を天才棋士にと英才教育をほどこす動きはあるけれど、たとえこれから天才的なスター棋士が出ても、一般の「観客」が減っていけばその競技の未来はない。 「それからもうひとつ、これはきょうの本題でもあるんですが、なぜ将棋は、駒を漢字で表わすことにこだわっているんでしょうか」  それこそが、まさに吉村が抱いていた素朴な疑問だった。 「外国人向けに将棋のタイトル戦を解説するホームページもできましたけど、指し手や解説はぜんぶ英文になっているのに、盤上の駒だけは『王』とか『飛』というふうに、漢字のままだったりする。そうなると日本語ができない外国人は、漢字を覚えるところから入らなきゃならない。ゲームを覚える前にまず語学、というプロセスを強いるのは、ちょっと文化の押しつけみたいで不親切じゃないかなあ……」  将棋が囲碁に較べて国際化がなかなか進まないのは、ルールの複雑さがあるとも言われるが、吉村は、それ以前に、漢字へのこだわりがいちばん障害になっていると感じていた。チェスが全世界で膨大な競技人口を抱えているのも、チェス駒の種類は形状で区別され、決してそこに文字が介在しないからである。  文字がないということは、たんに言語や人種の枠を超えられるというだけではない。文字が読めない幼い子供でも、あるいは教育を受けていない人々でも、楽しくチェスに触れられるということなのだ。「文盲率」とか「識字率」という言葉が死語のようになっている日本では、読み書きができてあたりまえという感覚があり、知らず知らずのうちに、多言語民族や教育の行き届かない人々に対して、結果として傲慢《ごうまん》になっているところがあるのではないか、と吉村は思っていた。  その最たる例が、将棋駒の裏側に書かれる文字である。  将棋はヨコ九×タテ九の八十一マスに区切られた盤上で行なわれるゲームだが、相手の陣地に自駒を進めたとき、「成る」といって、駒を裏返しにして、戦闘能力に付加価値をつけたり、あるいは別の機能を持たせることができる。  王将・飛車・角行・金将・銀将・桂馬・香車・歩兵——略して王飛角金銀桂香歩と八種類ある駒のうち、王将と金将の裏には何も書いていない。この二つだけが「成る」という行為ができないが、ほかの駒は、裏に別の文字が書いてある。  オモチャ屋で売っている安価な将棋駒は、裏側の文字は赤で記されているが、プロ棋士が使う本格的な駒は、裏の文字も黒である。  飛車を裏返すと「龍王《りゆうおう》」 で通称「龍」、角を裏返すと「龍馬《りゆうま》」で通称「馬」。  銀・桂・香は、裏返しにした場合「成銀《なりぎん》」「成桂《なりけい》」「成香《なりきよう》」 と呼ばれて「金」と同じ機能となる。また歩が裏返ると「と金」になって、これも「金」と同じ。  これらの成った駒を「成り駒」と呼ぶのだが、これが日本人にとってもじつに読みづらい表記になっているのだ。「龍王」「龍馬」はまだしも、「成銀」「成桂」「成香」は、それぞれ「金」と同じ機能になることから、「金」の崩し字を三パターンに分けて書いてある。この区別が付きにくいため、慣れない初心者は、相手や自分の駒が裏返ると、元が何の駒であったのかわからなくなって、いちいちつまんで表を返して見たりしなければならない。  歩が裏返った「と金」はまだ区別しやすいが、この「と」にしても、じつは「金」の崩し字の一形態なのである。  このように、日本人のおとなでもわかりづらい表記を使った駒で、子供たちに遊べといっても無理がある。しかし、子供用の将棋駒は、これまで真剣に開発を検討されたことがない。 「考えてみれば、将棋の世界が、これまで子供に親切な目を向けてこなかったのが不思議ですよね」  成り駒表記を例にとりながら、吉村はつづけた。 「童話には子供の年齢に応じた、絵だけの本や、大きなひらがなを使った本があるのに、将棋は最初から龍王のような難しい漢字や、それよりもっと難しい崩し字の判別を幼稚園ぐらいの子供に要求するわけでしょう。誰も子供専用の駒を考えたことがない。それでいて一方では、将棋の英才教育は小学生になってからでは遅い、という常識もある。でも、読めない漢字を使ったゲームじゃ、その世界に飛び込んでくる子供はごく一部ですよ」  ファッション面と、漢字の問題。その二つの要素が、将棋の間口を狭めていると、吉村は強調した。いまの子供は、吉村が育ったような昭和二十年代、三十年代の子供とはまったく感性が違うし、漢字の読み書き能力も違うのだ。  スポーツでも頭脳ゲームでも、間口が狭ければ優秀な競技選手は現れにくいし、潜在能力に恵まれた人間も、切磋琢磨《せつさたくま》する相手が少なければ力が伸びていかない。その代表的な例が、女性棋士といってよいかもしれなかった。  二十世紀末の段階で、公式戦における女性棋士の男性棋士に対する勝率は二割に届かない。しかも、それらの勝ち星を挙げた女性棋士は、清水市代《しみずいちよ》、中井広恵《なかいひろえ》、斎田晴子《さいたはるこ》の三人に限られているのだ。  その事実をもってして、女性の能力限界説を唱える将棋関係者は少なくないが、一方でビジネス世界での若手社員などを見れば、最近では概して男性よりも女性に優秀な人材が多いのは、衆目の意見の一致するところで、その傾向が将棋界に当てはまらないはずがない。要は、間口の問題なのだ。  いまは、あまりにも将棋の世界に飛び込む女性が少ない。これが歌手のオーディションのように志望者殺到となれば、いやでも競争は激しくなり、才能を持つ女性はハイレベルで鍛えられてゆき、あっというまにその実力は男性棋士と肩を並べるようになり、追い越していくことも可能になるはずだ。そういう日のくることが、現時点ではまだ夢物語のように否定的ニュアンスをもって語られるのは、ひとえに将棋に惹かれる女性が少ないからにすぎない。だから将棋界の発展のためには、女性にとって魅力ある将棋という側面も打ち出していく必要がある。  こうした考えを吉村が述べていくと、意外なことに三人のプロ棋士たちからは、まったくそのとおりで、将棋が現状維持でよいとは思っていない、もっと変わらねばならないと私たちも考えていたんです、と異口同音の発言が相次いだ。  伊藤果、島朗、森下卓の三人に共通する考えは、将棋の伝統を守っていくのは自分たちプロ棋士がやればよいことで、一般のファンはもっと自由な雰囲気で将棋を楽しんでもらいたい、というものだった。  たとえば伊藤は、アマチュアならば正座が正式な対局姿勢という考えにこだわる必要はないと言い、森下は、勝負がついたときに駒台に手を置いて「負けました」と頭を下げるのは、負けたほうに屈辱感を与えるし、ゲームとして堅苦しすぎると感想を洩《も》らし、島は、王様が詰むまでは絶対に終わらないというのではなく、適当なところで引き分けカードを提出してゲームを打ち切るスタイルも取り込めば、会社や学校の昼休みに気軽に楽しめるようになるのでは、という大胆な提案も持ち出してきた。  それならばいっそのこと序盤も省略して指定局面からはじめれば、もっと対局時間は短縮できるし、序盤の定跡を覚えるという初心者にとって面倒な手順も省けると吉村が言うと、そのアイデアもプロ棋士たちは歓迎した。  あるいは将棋を健康的なものとするために、対局中は禁煙とするという考え方も、ヘビースモーカーの伊藤を除いては賛成であった。さらに話は盛り上がってゆき、いずれルイ・ヴィトン・カップ争奪戦のような、女性だけを対象としたとことんファッショナブルな将棋イベントをやろうというアイデアまで出るころには、四人の声は知らず知らずのうちに大きなものになっていった。  そして、彼らのすぐ後ろのテーブルで、がっしりとした体格の若い男が聞き耳を立てていることなど、四人の誰ひとりとして気づいている者はいなかった。 「それで最終的に行き着くところは……」  プロ棋士たちの好反応にすっかり意を強くした吉村は、あえて最後までとっておいたネーミングを持ち出した。 「日本人や中国人にしか馴染《なじ》めない漢字を将棋の駒《こま》からとって、チェスと同じように世界に通用するゲームにしたいんです。だから私は、これをジャパニーズ・チェス——略してJチェスと呼びたい」  吉村の背後のテーブルで、男がメモ帳にペンを走らせた。 [#2字下げ]≪漢字の消滅 世界に通用する将棋ゲーム Jチェス≫[#「≪漢字の消滅 世界に通用する将棋ゲーム Jチェス≫」はゴシック体]       *   *   *  その男——九条宏は、これは使えるかもしれない、と直感していた。  九条は将棋マニアというところまでは至らないが、子供のころに父親から教えられてよく指していた時期がある。だから、将棋の駒の中には「龍王(竜王)」と呼ばれる飛車を裏返しにしたときの成り駒があることも当然知っていた。  龍をテーマにしたゲームソフトを開発せよ、という周龍平社長の指示を具現化するヒントが、ここに転がっていた、と九条はひらめいた。  この日、彼はたまたまふらりとこのホテルのコーヒーラウンジにお茶を飲みに立ち寄った。そして、将棋ファンなら誰でも知っている顔がテーブルを囲んでいるのが目に入り、さりげなくそばのテーブルに腰を下ろしたところ、興味深い議論が耳に飛び込んできたのだ。これこそまさしく天の巡り合わせかもしれない、と、九条は、最近妙に神がかってきた社長の周が言いそうなセリフを頭に思い浮かべて苦笑した。 「戦略的には、第一段階では日本の子供にターゲットを絞りたいんです」  聞こえてくる吉村の声に、九条はまた耳を傾けた。 「それも小学校低学年以下の子供です。幼稚園や、もっと小さな幼児にも楽しめるJチェスというところからはじめたい。なぜかと言えば、家族で楽しめるJチェスという広め方が、従来の将棋界への貢献度もいちばん高くなると思うからです。私が提案するこのJチェスは、それだけが独自に盛り上がっていけばよいとは考えていません。あくまで将棋本体の発展のために存在するJチェスなんです。  だから、世界戦略を後回しにするのはもちろんのこと、男子中高生に的を絞ったアクションゲームのような展開も、第二段階、第三段階でやっていけばいい。そっちのほうが先行してしまうと、あまりにも将棋から離れて事が進んで、本来の趣旨からはずれますからね。そうなるとプロ棋士のみなさんに協力していただく意味もなくなってしまいますから。  で、小さな子供たちに親しんでもらうことをまず念頭に置くならば、将棋の駒に書かれた漢字をぜんぶ取っ払って、動物キャラクターに置き換えるのがいちばんいいんじゃないかと思っているんです。このキャラクターが可愛《かわい》ければ、それらを主人公にした童話なども作っていける」  ふふふ、甘いな、と、聞き耳を立てていた九条は、声を出さずに笑った。 (吉村という男は、えらそうなゴタクを並べているが、しょせんは将棋ファンの域を出ないド素人だ。ゲームのゲの字もわかっちゃいない。いちばん金になるのはアクションゲームやロールプレイングゲームにアレンジする部分じゃないか。おいしいのは、そこだろ。そこを突っ込まないで、未就学児童を相手におとぎ話みたいな世界を作り上げたって、大金を出すスポンサーがつくと思ってるのか。おもちゃメーカーに売り込んだところで、なるほど面白いお考えですね、でも、幼稚園児向きの企画ですな、という感じでおしまいになるに決まっている)  相手の読みが甘いだけに、これはじゅうぶんアイデアを盗む余地があるな、と九条は判断した。 (将棋の駒を動物キャラに置き換えるなどという幼稚なことはせず、すべてを仮想世界の格闘戦士にするのだ。スーパー・ウォリアーズだ。飛車は龍——ドラゴンでこれは決まりだ。角は何がいいだろうか。一角獣のような恐竜かな。金と銀は、全身をゴールドやシルバー・メタリックの甲冑《かつちゆう》に覆われた戦士にしよう。桂馬は、天空を駈《か》けめぐる翼の生えたペガサス……うん、なかなかいいぞ。それから香車は……)  そこでチラッと周の娘、香の顔がまぶたに浮かんだ。 (香車は、槍《やり》のシッポを持ったヴィーナスにしてみるか。顔は美しいけれど、強気で怒りっぽくて、相手をグサリと槍で刺す。そして歩は……)  そこまで考えたとき、長身の森下卓がテーブルを立つのが九条の視野に入った。 「申し訳ございません。わたくし、これからちょっと子供を迎えにまいりますので、まことに勝手ながら、お先に失礼させていただきます」  森下がていねいな口調で挨拶《あいさつ》を述べると、吉村も立ち上がって頭を下げた。 「それでは森下さん、次回のミーティングもよろしくお願いいたします」 「かしこまりました」 「奥さまにもどうぞよろしく」 「あ、いたみ入ります。吉村さんも、時節柄どうぞお風邪など召しませんよう」  どこまでも丁重な物言いをする森下は、身体《からだ》の両脇《りようわき》につけた両手を指の先までピシッと伸ばして一礼し、一足先にコーヒーラウンジを出ていった。 「ところで……」  ふたたび腰を下ろした吉村が、伊藤と島のふたりに向かって言った。 「もし可能ならば、このJチェスのプロジェクトに佐藤さんも参加していただけたらなあ、と思っているんですが」  九条は、ピクリと眉《まゆ》を吊《つ》り上げた。佐藤さんというのが、佐藤|康光《やすみつ》九段のことを指しているとわかったからだ。  佐藤康光は、島朗が初代タイトル保持者となった竜王の第六期タイトルを獲得しており、さらにその五年後には将棋界でもっとも伝統のある名人位に就いている。読みの深さは天下一品で、その理知的な風貌《ふうぼう》ともあいまって、「一秒間に一億と三手読む」というのが彼のキャッチフレーズになっていた。チェスの世界チャンピオンを負かした当時のコンピューターが一秒間に一億手読むと言われていたところから、そのコンピューターよりもすごいという意味での称号である。  その佐藤がJチェスのメンバーに加わって、総勢四人の棋士が関与していくことになると、ますます将棋ファンの間での認知度も高まってくるだろう、と九条は想像した。 (だけど、ブームの盛り上がりは、こっちが考える戦闘ゲームには遠く及ぶまい。悪いけれど世の中をリードするのは我々だ)  すでに九条の頭の中では、ゲームに関するひとつのシナリオができあがっていた。  将棋駒の戦闘機能をモチーフにして造りあげた恐竜あり、ロボット戦士あり、伝説の女神あり、悪魔ありという、ジャンルを問わぬ混成最強格闘軍団を造りあげ、それが「紅蓮《ぐれん》の宮城」と「群青の宮城」とに分かれて壮絶なバトルを繰り広げるという構想である。そして、双方の王を守る最高司令長官に龍をあてることで、龍をテーマにせよという周社長の課題はクリアされることになる。  ゲームのネーミング案はいろいろ浮かんできた。「龍GOO城・最終戦闘指令」とか「ドラゴンバトル」といった、龍にまつわるタイトルを二十ほどメモに書き連ねてみたが、どれもどこかで聞いたようなものになるので、それなら会社名をそのまま使用した「龍王伝説」がよかろうと思い、九条はそれを周社長にプレゼンテーションする最終案と決めた。  九条が構想をまとめあげ、メモ帳を閉じたちょうどそのとき、隣のテーブルの三人が打ち合わせを終えて立ち上がった。 「それでは来月にでも、いちど関係者全員で集まる総合ミーティングをやりましょう」  吉村が伊藤と島に再会の約束をしているのを耳にしながら、九条宏は自分の伝票をつかんでスッと席から立ち上がった。 (ヒントをくれてありがとう。アイデアはたっぷり拝借させてもらうよ。悪いね)  ニヤッと笑ってから、九条は隣の三人より先にレジのほうへと歩いていった。 [#改ページ]    3 双眸の龍王[#「3 双眸の龍王」はゴシック体] 「氷室《ひむろ》君、きみに協力を求める事件としてはきわめて異例かもしれないが、これは殺人事件ではない。殺人未遂事件だ」  京都盆地に灼熱《しやくねつ》の季節がやってきた七月——  京都御所の北、同志社大学の裏手にある精神分析医《サイコセラピスト》・氷室|想介《そうすけ》のカウンセリング・オフィスにやってきた警視庁捜査一課警部の田丸巌《たまるいわお》は、扇子でぱたぱたと顔をあおぎながら、用件を切り出した。 「ただし、現在被害者が意識不明の危篤状態にあり、いつ死亡してもおかしくないという点では、殺人事件と同等の凶悪事件としてとらえてもらってよいと思う。……ああ、すまんね、舞《まい》ちゃん。冷たい麦茶とはありがたい」  田丸は、アシスタントの川井《かわい》舞がトレイに麦茶をのせてきたのを見ると、あおいでいた扇子をパチッと音を立てて閉じ、彼女に向かって目尻を下げた。捜査一課の鬼警部も、えくぼをぺこんとへこませた舞の愛嬌《あいきよう》ある笑顔にはめっぽう弱い。じつのところ、きょうは舞ちゃんの顔をひさしぶりに見たくなったので京都まできたんだがね、と軽口を叩《たた》きながら、田丸は麦茶のグラスを受け取り、カラコロと氷がぶつかる夏らしい音を楽しんでから、一気にそれを喉《のど》の奥に流し込んだ。 「もう一杯さしあげましょうか」  と、問いかける舞に、「いや、もうけっこう」と笑顔で断ってから、田丸はまた扇子をひろげ、ぱたぱたと顔をあおいだ。そして、部屋から出ていく舞の後ろ姿を見送ると、田丸はふたたび仕事の顔に戻った。  いつもなら氷室に対して、舞ちゃんとの結婚はまだかと、とりあえずは茶々を入れるところだったが、きょうはその余裕もないという雰囲気だった。  氷室が警視庁と目と鼻の先にある東京|日比谷《ひびや》にオフィスを構えていたころは、ふたりは捜査一課が抱える難事件の解決のためにひんぱんに会っていたが、氷室が京都へ移転してからは、直接顔を合わせる機会はめっきり減っていた。  しかもネット時代の本格的な到来を迎え、メールという電話やファックスをしのぐ情報交換システムが確立したために、氷室に捜査の協力を求めるにしても、田丸がわざわざ京都まで出かける必要性は少なくなっていた。しかし今回の事件に関しては、メールのやりとりで済む問題ではなかった。  というのも、殺人未遂事件の三人の容疑者が、マスコミを通じて自らの身の潔白を訴えながら、ほかの二人への疑惑を声高に主張するという、三つどもえの泥仕合を展開しはじめたことに加え、そのうちのひとりが、まるで田丸のやり方のお株を奪うように、「私は精神分析医・氷室想介先生に事件解決への協力を要請いたします」と、氷室当人への直接の相談もなしに、記者会見までして声明を出したからだった。  そこで田丸としては、この動きに先んじるために、氷室との綿密な打ち合わせを急ぐ必要にかられたのである。 「きみも容疑者のひとりから相談のご指名を受けているから、概要はつかんでいるかもしれないが」  グラスに残っていた氷のかけらをほおばり、ガリガリと噛《か》み砕いてから、田丸はつづけた。 「いちおう私のほうから、事件のあらましを述べさせてもらいたい」 「お願いします」  と言って、氷室は長い脚を組み替えてソファの背に身を沈めた。  きょうの氷室は、純白のポロシャツに麻のパンツという夏らしいいでたちである。べつに田丸警部相手だからラフな服装にしているのではなく、相談者《クライアント》に対しても背広やネクタイという改まった装いはしない。最初のころは医者らしく白衣をまとっていたが、氷室想介の知名度が全国区となったいまは、服装にもっともらしさを求めるよりも、相談者の気持ちを楽にさせるファッションのほうがよい、と考えるようになったからだ。 「事件が起きたのは、いまから二週間前の六月下旬。被害者はコンピューター・ゲームを制作している『龍王』という会社の社長・周龍平、五十歳だ」  田丸は事件の概略を切り出した。 「彼は名前から推してわかるとおり中国系だが、国籍は日本だ。その彼が、都心にあるホテルのセミスイートルームで何者かに襲われ、意識不明の重態に陥っている。頭蓋骨《ずがいこつ》陥没骨折をともなう脳挫傷《のうざしよう》で、二週間経ったいまも意識は回復せず、きわめて危険な状況にある。そして凶器は……」  田丸警部は、肩をすくめて言った。 「将棋盤だ。豆腐の角に頭をぶつけて死んじまえ、という言い回しはあるが、周社長は何者かに髪の毛をわしづかみにされ、榧《かや》の六寸盤と呼ばれる、脚のついたタイトル戦などにも使われる本格的な将棋盤の角に、額やこめかみ、さらには後頭部などを何度も打ちつけられたことによって、脳に回復不能と思われる重大な損傷を負った」 「将棋盤を持ち上げて叩きつけたのではなく、被害者の頭を将棋盤に打ちつけたんですね」 「負傷の状況などからみて、そういうことだ。したがって、これは傷害事件というよりも、明らかに殺意をもった攻撃と判断せざるをえない。だから殺人未遂として捜査をしているのだ。では、関係者の写真や現場写真などを見せながら、もっと詳しい状況説明をしよう。……ああ、それと、そこのパソコンの電源を入れておいてくれないかな」  田丸は、窓際に置かれた17インチ液晶モニターがついたパソコンを指さした。 「あとできみに見てもらいたいホームページがあるものでね」 「わかりました」  氷室はパソコンのところへ行って電源を入れ、パスワードを入れてウィンドウズのデスクトップ画面を立ち上げた。そして、ふたたびソファのところへ戻って、田丸警部が話を進めるのを待った。 「紙芝居のようだが、写真を一枚ずつ見せるとするかな」  持参したクラフトから大判に引き伸ばした写真の束を取り出した田丸は、まず最初のカラー写真を氷室に見せた。 「これが被害にあった『龍王』の社長・周龍平だ。新聞や雑誌などに掲載するプロフィール用の写真として、プロのカメラマンに撮らせたもので、さすがに出来映えはいいわな」  写真の周は、かなり白髪がまじって、グレイというよりも銀色に輝いている髪を七三に分けたヘアスタイルをしていた。毛量は多いが、その色合いのせいで五十よりもっと老けてみえる印象である。 「柔和な目元をした温厚そうな人物ですね」  写真を手に取った氷室が言った。 「でも、怒ると形相が一変しそうな気もします」 「さすがだな、氷室君。関係者の証言によると、周社長は社員たちからは相当怖がられている存在らしい。ふだんはこの写真のように温厚な人柄だが、いったん怒り出すと顔つきがガラッと変わって狼男のようになる、とね」 「狼男、ですか」 「そうなんだ。最近はゲームソフトメーカーとしての調子がかんばしくなくて、イライラを社員にぶつける回数も増えていたらしい。で、なんとか経営を建て直そうとして、周社長が同業他社からヘッドハンティングしたのが、この男、九条宏だ」  田丸が取り出した二枚目の写真には、浅黒く日焼けしたがっしりした体格の若い男が、これも笑顔で写っていた。 「まだ二十九歳という若さだが、『龍王』の常務取締役のポストに就いている」 「眉毛《まゆげ》が濃く、キリッとした眼差《まなざ》しの男らしさを放ちながら、やさしい笑顔をたたえてみせる——怖そうだけど優しい人、というふうにも受け取れますけれど、私の直感から言うとその逆で、優しそうだけれど暴力的な側面を持っている男ではないか、という気がしますね。つまり、九条氏もまた周社長と同類項ではないかと」 「なんだか氷室君も、人相見のオバはんのようになってきたな」 「かもしれませんね」  氷室は微笑《ほほえ》んだ。 「人は外見で判断してはいけない、という言葉がありますが、むしろ私は、人はその性格が外見に出る、という考えの持ち主ですから、人物写真を見るときには、大いに先入観を働かせることにしているんです」 「その先入観が、またよく当たるから恐ろしいんだが」  田丸は、片方の眉を吊《つ》り上げて笑った。 「きみの推測したとおり、九条宏にも暴力的な噂《うわさ》はついて回っている。彼はまだ独身なんだが、前にいた会社でも好きになった女性が交際を断ろうとすると、殴る蹴《け》るの乱暴をして、力ずくで自分の言いなりにさせようとした。そんな出来事が、なんと三度もあったらしい」 「女性側から被害届は出ていないんですか」 「出ていない。今回の内偵でも、会社内部の人間からそういう噂話が洩《も》れてくるものの、当の女性たちは完全否定なんだ。怯《おび》えた表情でね」 「仕返しを恐れているんですね」 「身長百八十センチで体重九十五キロもある巨体で威嚇されたら、生命の危険も感じてしまうだろう。彼女らは、泣き寝入りをすることが九条の暴力から身を守る最良の方策だと思っているんだな。警察にも正直ないきさつを言えないほど、いまだに彼の存在は恐ろしいものらしい」 「なるほど」 「だから、九条がヘッドハンティングされて周社長のもとへ引き抜かれた出来事は、前の会社からすれば、戦力の損失を嘆くよりも、厄介者を追い払えてホッとしたというのがホンネのようだ」 「才能は豊かなれども、性格に問題あり、ですか」 「そういうことだ。で、彼が容疑者のひとりなんだが、ふたりめの容疑者は、この女性だ。周社長の後妻である周水絵」  田丸が取り出した三枚目の写真は、何かのパーティに夫・龍平とともに出席したときのスナップで、ゴージャスなドレスに身を包んだ水絵は、夫の腕をとって寄り添い、カメラに向かって微笑んでいた。男を誘惑する営業用スマイルが自然と出た表情だった。 「年の離れた後妻という点を差し引いても」  氷室は言った。 「夫婦というよりは、上得意のお客さんとデート中のナンバーワン・ホステスという感じですね」 「実際このふたりは、そういう関係で知り合っているんだ。水絵夫人は、周氏が行きつけのクラブでナンバーワン・ホステスだった。その彼女を気に入って口説いて、一年半前に結婚まで持ち込んだ。そのさい、店のほうに売れっ子を辞めさせるための補償金のようなものを払ったとの噂もある」 「引き抜いたも同様の結果ですからね」 「そうして実業家夫人となった水絵だが、夫の腕にすがるしぐさひとつとってみても、商売っ気が抜け切れていないわな。どこがどう違うというわけではないんだが、そぶりがシロウトじゃない」 「それにしても若いですねえ。いくつでしたっけ、彼女は」 「三十三……もうすぐ四になるよ」 「とてもそうは見えない。二十代なかばで通用しますよ」 「それどころか、もっとカジュアルな服装をすれば、女子大生にみえることもある。私が会ったときも、そういう印象だった」 「ただ、キュートな小悪魔という形容詞がピッタリの可愛《かわい》らしさはあるけれど、演技っぽさがつきまとう感じですね」 「同感だ。で、その後妻となにかと険悪ムードになっているのが、きみを捜査官として指名した周龍平氏のひとり娘・香だ」  田丸が取り出した四枚目は、水着姿に「決定! ミス・キャンパス」というたすきをかけて王冠をかぶっている周香の写真だった。 「去年の秋、大学の文化祭イベントとして行なわれたミス・キャンパス・コンテストで優勝したときのスナップだよ。当時の彼女は二年生だな」 「テレビの記者会見でも見ましたけど、きれいな子ですね」 「この美貌《びぼう》は、若くして死んだ母親譲りだそうだが、一方で、気の強さは父親譲りのようだ。ミスコンの代わりに、じゃじゃ馬コンテストをやっても優勝したんじゃないかと言われるほどでな」 「被害者も容疑者も、みんな気の強い連中ばかりというわけですか」 「そのとおりだ」 「ただ、香さんは被害者の実の娘でしょう。それなのに容疑者リストに加えられているんですか」 「いちおうな。まあ、これからそれぞれの犯行動機として考えられる背景を説明していくが……ところで、香からきみのところへは連絡があったかね」 「ついさっき本人から電話がきましたよ。まだ、警部が新幹線に乗ってこっちへ向かっていらっしゃるころに」 「なんと言っていた」 「『勝手にマスコミ相手に記者会見を開き、無断で氷室先生のお名前を出して申し訳ありません。でも、私としては、父をこんなひどい目にあわせた人間を、どうしてもほうってはおけなかったから、氷室先生に真相究明をお願いしたかったんです』と謝りながら事情説明をしていました」 「それで氷室君は何と応じた」 「私の職業は私立探偵ではないんですよ、と言いました。あくまで本業は精神分析医なんです、と。すると彼女は、だからお願いしているんです、と、私がぜんぶを言い終わらないうちにたたみ込んでくるんです」 「そうそう、それそれ」  田丸は、人差指を突き出して苦笑した。 「ワガママなお嬢さんとして育てられたせいかどうか知らないが、人の話を聞かない子なんだよなあ。警察の取り調べに対しても、こっちが用件を半分も言い終わらないうちから、カッと感情的になって反論をまくし立てる。お嬢さん、ちょっと待ってくださいと言っても、警察は私を犯人だと決めつけている、と大声でわめきちらして収拾つかんのだよ。じつに感情的な子だね、彼女は。……で、会うのかね、彼女と」 「会うも会わないも、とにかく近いうちにそちらへ行きますからと一方的に宣言されましてね。九条さんと水絵さんの精神構造を分析して、どちらが父を殺そうとした犯人なのか、先生の判断を私に聞かせてくださいと」 「自分はさておいての犯人探しかね」 「ええ」 「それで、いつくるんだ」 「具体的な日にちは聞いていないんですが、このままでは私は、警察に逮捕されてしまいます、と、かなり焦っている様子なんです。田丸警部の名前も出していましてね」  氷室は笑った。 「私、ああいう顔の人は大きらいなんです、と言っていましたよ」 「まいったなあ」  田丸は頭をかいた。 「私と志垣《しがき》は、警視庁の二大コワモテ警部だからな。それでも志垣よりは、少しはマシだと思うんだが」  田丸はおどけた表情でため息をついた。が、すぐに真面目《まじめ》な顔に戻ってつづけた。 「では、三人の言い分を含めながら、事件のあらましを説明しよう。何から何まで将棋づくしの殺人未遂事件なんだがね、なんといっても異常なのは、意識不明で発見された周龍平社長の両眼に、将棋の駒《こま》が嵌《は》め込まれていたことなんだ」 「両眼に将棋の駒が?」  氷室は眉《まゆ》をひそめた。 「それは知りませんでした」 「ちょっと猟奇的すぎるからね、マスコミには完全に伏せてあるんだ。現場のホテルにいた三人の身内に対しても、そのことだけは絶対に口外しないように箝口令《かんこうれい》を敷いてある。どうやらその約束は守られているようだが」 「将棋の駒が嵌め込まれているというのは、つまり周社長の目の中に押し込まれていたんですか」 「ひどいだろう。右目にひとつ、左目にひとつ、いずれも飛車の駒だった。ただし、そいつを裏返しにして龍王という文字が書かれたほうが表に出ていた。わかるかね」 「ええ、あまり将棋は指しませんが、基本的なことは知っています。飛車が敵陣に入っると、裏返して龍王という、より強力な駒に変身できることは」 「いや、私が『わかるかね』ときいたのは、将棋の基礎知識ではなく、その状況が想像できるかね、という意味なんだ」  そう言って、田丸警部は新たに七枚の写真を、まとめて氷室に差し出した。  すさまじい光景がそこにあった。 [#改ページ]    4 龍の暗号[#「4 龍の暗号」はゴシック体]  犯行現場はホテルのセミスイートルームだと田丸警部が語っていたので、氷室は当然のように、ベッドルームと小さめのリビング部分が連結している空間を想像していたが、周龍平が何者かに襲われた部屋は、和洋折衷の間取りになっていた。  まだどちらも使った形跡のないツインベッドが置かれた洋室部分と、四畳半の和室が仕切りなしでオープンにつながっている。  その四畳半の中央に、プロの将棋棋士が対局に用いるのと同じ、脚のついた榧《かや》の六寸盤が据えられていた。将棋盤の脇《わき》には、取った持駒を載せる駒台が先手と後手のぶんそれぞれ置かれている。盤をはさんで座布団が一枚ずつ。さらには脇息《きようそく》と呼ばれる肘《ひじ》掛けの台までセッティングされてあり、まるでプロの対局風景のようだった。  だが、写真で見る手前側の座布団は斜めに曲がっており、脇息は倒れ、将棋盤の角には大量の血液が飛散していた。そして、ゴルフ用の半袖《はんそで》ポロシャツにスラックスという格好の周龍平が、あおむけになって倒れていた。  別の写真には、倒れた周の顔のアップが撮られていた。  田丸警部との協力活動において、これまでさまざまな残虐現場の光景を見慣れている氷室が、おもわず小さな呻《うめ》き声を洩らした。  周龍平は、将棋の駒の目をしていた!  そう表現するよりなかった。御蔵島産の黄楊《つげ》で作られた漆の盛り上げ駒。「巻菱湖《まきりようこ》」と呼ばれる流麗な書体で描かれた崩し字の「龍王」が、下のまぶたと上のまぶたを押し広げる格好で、左右両方の目に嵌め込まれていた。そして、顔面には頭部から流れ出した血のだんだら模様が描かれている。  異様で壮絶な死に顔だった——いや、「死に顔」ではない。  氷室想介は、あまりにもその光景が常軌を逸していたものであったため、一瞬、錯覚をした。あたかも殺人現場の写真を見せられているような気がしたのだ。  だが、よく考えてみたら、被写体の周龍平は生きているのだ。では、なぜこうした死体写真と勘違いさせられるような客観的映像が撮られているのか。 「鋭い氷室君なら、もう気がついているだろう。周社長は死んではいない。生きている。それなのに殺人現場のような写真がなぜ撮られたのかと」 「ええ」 「その疑問に対する答えも含めて、関係者三人の事情聴取と客観的事実を交えて、二週間前の出来事を時系列的に説明していこう。ああ、その前にインターネットで見てほしいサイトがあるんだ」  田丸警部はソファから立ち上がると、氷室が準備しておいたパソコンのほうへ歩み寄った。氷室もそれに従い、パソコンの前の椅子《いす》に座って田丸の指示を待った。 「きみは吉村達也という推理作家を知っているだろう」 「もちろんです。会ったこともあります」 「その彼が自分のホームページを作っているが」 「ああ、それなら『お気に入り』に入れてありますよ」  氷室はインターネットを立ち上げ、「お気に入り」のフォルダーから吉村達也公式ホームページ「Birds of Paradise」(http://www.my-asp.ne.jp/yoshimura/)を選んでクリックした。  超最新情報と題したウィンドウに「角川ホラー文庫『お見合い』好評発売中!」とか、「書き下ろしの長編、ド煮詰まり中。電話、ケータイ、すべてシャットアウトしています」などと、締め切り催促に追われている様子が、リアルタイムで掲載されてあった。 「あいかわらず忙しい人ですね」  画面を見ながら氷室は笑った。 「つぎからつぎへと仕事を回していないと落ち着かない性分のようで、ホームページを見ているほうが目が回ってしまいますよ」 「回転寿司《かいてんずし》みたいな男だな。……で、その吉村氏がプロデュースしているJチェスというサイトがある」 「警部がなぜそこまでごぞんじなんですか」  吉村と直接親交のある氷室は、意外そうに問い返した。 「そのJチェスが、今回の事件と密接にからんでいるんだよ。吉村達也公式ホームページのトップに、Jチェスのホームページへジャンプするボタンがあるだろう」 「知っています」 「それをクリックしてみてくれ」  田丸の指示どおりに氷室が画面のボタンをクリックすると、Jチェスのホームページ(http://www.j-chess.com)が現れた。 「じつは私は、こっちのページはあまり見ていないんですよ」  氷室が言った。 「推理作家としての吉村氏の日常には興味がありますが、さっきも言いましたように、将棋はさほど趣味ではないので」 「じゃあ、私がこのJチェスがどういうものであるかを説明してやるから、ちょっと前に座らせてもらえるかな」  氷室に代わって、田丸がパソコンの前に座った。そして、Jチェスのメイン画面から、さまざまなページを開いて、氷室想介にJチェスというゲームの概略を説明していった。 「ようするにこれは、将棋の駒《こま》から漢字を取り除いたら、もっと幼い子供にも将棋を楽しんでもらえるだろうし、女性にも馴染《なじ》みやすいだろうし、ひいては言語の違いや文字の教養にとらわれず、純粋に将棋の面白さを世界じゅうの人々が味わえるのではないかという発想からできあがった『字のない将棋』なんだ」 「なるほど、字のない将棋ですか。代わりに動物の絵をあてはめたわけですね」 「そうなんだ。逆転の発想というやつかな。で、動物を持ってきたことで、ぜんたいが童話っぽい世界になっている。九×九マスある将棋盤を、フランス語の9《ヌフ》にちなんで『ヌフヌフの森』と名付け、グリムやアンデルセンの童話に出てくるような森をイメージしてあるのも、幼い子供を中心に家庭で楽しむJチェスというコンセプトに貫かれたものだろう。先手側を『レインボー城』、後手側を『オーロラ城』と呼んでいるのも、童話のストーリーを作るつもりがあるのかもしれない」 「しかも、マス目にもカラフルな色がついているんですね」 「うん。そのせいか、だいぶチェスっぽい見た目だわな。だからJチェスと呼んでいるんだろうが」  さらに氷室は、将棋のように王様どうしの対決でないことにも気がついた。片方は王だが、もう一方は女王になっているのだ。 「先手はクイーンで、後手がキングというのも新しい発想ですね。チェスは同じ側にキングとクイーンがペアでいますが、こっちは男女の決戦ですか」 「そのあたりは、女性を意識した配慮なんだろうな。で、クイーンとキング以外の駒は動物のキャラクターに置き換えられている」  田丸は画面に現れたキャラクター駒の一覧を指さした。  飛車がイーグル(鷲《わし》)。  角行がチータ。  金将がパンダ。  銀将がフォックス(狐)。  桂馬《けいま》がディア(鹿)。  香車がビー(蜂)。  歩兵がワーカー(働きアリ)。  それぞれの駒の機能からイメージされた動物が割り振られていて、その駒が敵陣で成ったときには「スーパー」キャラになるというような説明が書かれてあった。 (画像省略)  氷室が驚いたのは、動物キャラに置き換えられているのは将棋の駒だけでなく、Jチェスの企画に協力しているトップクラスの将棋棋士までが、動物のイメージに自分を置き換えて、ニックネームをつけたイラストで登場していることだった。  最年長の伊藤果がフクロウのハタル・ハッテーナ、島朗がウサギのキラット・アルシマーニ、森下卓がキリンのタクリン・ノリック、そして佐藤康光がキリギリスのピカリス・ヤスキッチと命名されている。  そして総合プロデューサーの吉村達也は、パラパ・タッチーという名前の極楽鳥になっていた。 「将棋の人も、ここまで楽しいことをやってくれるんですね」  氷室は、第一線の現役棋士たちが、世間が想像するよりもはるかに柔軟な対応をしているのを見て、感心のつぶやきを洩《も》らした。  棋士といえば渋面を作って盤面を睨《にら》みつけ、勝負の結果にピリピリして日常生活でもシャレなど利かない——将棋をよく知らない一般の人々が抱きそうなイメージはそんなところだが、棋士自身によってその先入観を見事に覆した点では、Jチェスはたしかに従来の将棋の殻を破る展開につながっていきそうな予感はあった。 「Jチェスがどういうものであるかは、よくわかりました。それで?」  氷室が先を促すと、田丸は画面を指さして言った。 「このアイデアをそっくりいただいてしまおうと考えた男がいた。それが九条宏なんだ。彼自身、そのことを自分で認めている」 「どういういきさつで?」 「九条は社長の周龍平から、龍をテーマにしたコンピューター・ゲームを大特急で作れと命令されていた。なんでも去年の暮れ、北京の故宮に旅行したとき、そこで天からの啓示を受けたそうだよ」 「太和殿の階段に刻まれた彫刻にでもヒントを得たんですかね」 「よく知ってるなあ」  田丸は、氷室の博識に感嘆した表情を浮かべた。 「そのとおりだよ。皇帝の通り道となっている階段に彫られた龍の前で、天からの声を聞いたという」 「しかし、いくら神のお告げだから急げといっても、質の高いコンピューター・ゲームは拙速では作れないでしょう」 「うん。ハイレベルなゲームソフトというのは、二年がかり三年がかりで商品化に至っているらしいな。その間にも、コンピューター・グラフィクスや情報通信システムなど関連各分野の技術革新はどんどん進んでいくから、それに追いついていくのも一苦労という」 「完成したと思ったら時代遅れ、改訂してこんどこそ完成と思ったらまた時代遅れ、という繰り返しになることも多いそうですね」 「そうなんだ。世の中で大ヒットを飛ばしているゲームソフトは、大変な時間を投入して作り上げられている。ところが周社長からは、何が何でも一年以内に龍をテーマにした人気商品を世の中に出せとの至上命令が下ったから大変だ。そうなると、アイデアを練る時間すらじゅうぶんにとれない。そんなときに、九条がたまたま渋谷のホテルにあるコーヒーラウンジに立ち寄ったところ、吉村達也と将棋棋士たちがJチェスの企画を相談しているのが耳に入ったというわけだ。ことしの正月の出来事だ。それで彼は、Jチェスのアイデアを利用できると思った」 「では九条は、動物キャラを使った将棋ゲームを作ろうとしたんですか」 「いや、将棋ゲームではなく、戦闘ゲームを考えた。Jチェスにヒントを得ながらも、童話風なメルヘン世界とはまったく違う、SF怪奇アドベンチャーとでも言えばよいのかな、若い男たちが夢中になるハードなアクションゲームの構想を練った。そしてそれに『龍王伝説』というタイトルを付け、幹部会議でプレゼンテーションをしたそうだ。その場では、とくに周社長からの反応はなかったが、プレゼンから十日ほど経った日の夕方、九条は急に周社長から呼び出された。社長が定宿にしている都心のホテルの十二階にある、いつもの部屋にこいと言われたのだ」  田丸警部は、応接テーブルのほうに残しておいた写真をふり返った。畳敷きのセミスイートの和室。そこにあおむけに倒れ、両眼に将棋の駒を嵌《は》められた周龍平—— 「惨劇の現場となった和洋折衷のセミスイート一二一〇号室は、社長がアイデアを練ったりするときにこもる指定の部屋だったそうだ。午後五時すぎ、九条がそこを訪れると、周社長は、いつものようにお気に入りの将棋盤の前に座っていた。社長がホテルにこもるときは、その将棋盤を社長室からホテルの部屋へ運び込んでおくのが部下の務めだったという」 「周氏は将棋が趣味なんですね」  ソファのほうへ戻った氷室が、改めて写真を手にとって言った。 「うん。九条もそれを知っていたから、アドベンチャーゲーム『龍王伝説』は、ベースに将棋をもってきた。そうすれば社長が気に入るだろうと思ったからだ」  田丸もソファのところに戻り、氷室の向かいに腰を下ろした。 「周社長は、やってきた九条に対し、将棋を一局指そうと言いだした。といっても、腕前は周社長のほうが圧倒的に強い。勝負をするつもりなら、はなから九条は相手にならないんだ。社員たちによれば、周社長が幹部に対して『将棋を指そう』ともちかけるときは、ようするに説教を垂れるぞ、ということなんだ」 「なるほど、将棋を指しながらという演出があれば、長時間の説教ができますね」 「しかも、相手の顔を見ずに、盤面を見ながらネチネチとな」  田丸は笑った。 「そこで周は、九条のプレゼンテーションをひどく罵倒《ばとう》したそうだよ。将棋ファンの社長は、Jチェスに企画協力をしている棋士たちに対して、この『龍王伝説』は失礼だと言い放った。将棋の駒《こま》を恐竜やロボットに置き換えるという発想がJチェスと類似しているだけでなく、将棋そのものを侮辱しているといって、突然怒りだしたというんだ。  九条は心外だったらしい。龍をテーマにした人気ソフトを大至急作れと言ったのは社長だし、それはひとえに業績不振の会社を建て直す目的があってのことだった。だから、彼は彼なりに一生懸命考えての企画だった。ところが龍社長は、九条の人間性を侮辱するような言葉を浴びせかけたらしい。それで九条もカッとなって応戦した。  その激しい言い合いはドアの外まで洩《も》れてくるほどで、廊下を通りかかったホテルのボーイやルームメイドも聞いている。それだけでなく、社長に書類を届けにきた総務部のふたりの社員も、部屋の中の様子におじけづいて、入室を遠慮してフロントに書類を託したほどだった」  現場の写真を見直している氷室に向かって、田丸はつづけた。 「その口論はかなりつづいたようで、七時にホテルのレストランで家族三人の食事をとる約束があったため早目に訪れた後妻の水絵も、いったんは室内に入ったものの、ヒートアップするばかりのふたりの怒鳴りあいを仲裁することもできず、とりあえずホテルのコーヒーラウンジへ退避した。そして六時二十分ごろ……」  田丸は正確な時刻を確認するために、手帳を広げた。 「社長と常務が大ゲンカをしているらしいと聞かされた娘の香が、総務部長とともにホテルにやってきた。そのときには、とりあえずはドア越しに聞こえる罵声の嵐《あらし》は収まっていた。そこで香が一二一〇号室のドアをノックしようとしたとき、部屋の中から憤然とした態度で九条宏が出てきたんだ。娘の香は九条にどうしたのかとたずねたが、その問いには答えず、総務部長に向かって、『こんな会社、おれは辞めてやるからな』と言い放って去っていった。ちなみに、九条のそのあとのアリバイは完全に証明されている。さて、ここからが問題だ」  田丸は前屈《まえかが》みになって氷室を見つめた。いよいよ周龍平襲撃事件の核心部分に入るぞ、という目つきをしていた。 「九条が立ち去ったあと、娘の香と総務部長が入れ替わりに部屋の中へ入ったのかと思ったら、そうではないんだ。総務部長はそのつもりだったが、香が『こういうときのパパはしばらくそっとしておくに限るわ』と言って、ドア越しに声をかけることもなく、部長をうながしてエレベーターホールに戻ったんだよ」 「自然と言えば自然、不自然と言えば不自然な行動に受け取れますね」 「そのあと部長はタクシーを拾って、車ですぐの距離にある会社に戻った。六時四十分ごろのことだ。すると、すでに先に戻っていた九条が、常務室で荷物を整理していた。それを見て、総務部長は九条が本気で辞表を叩《たた》きつけるつもりなのを確信したという」 「九条宏は、その後、事件の発覚までずっと社内にいたんですね」 「そうだ。ゲームソフト会社の制作部門は昼も夜もない勤務体制だから、七時でも八時でも大勢の社員が社内にいる。そして、九条常務の反乱がいつのまにか噂《うわさ》となって広まり、みんなが彼の行動を気にしていたそうだ」 「で、娘と後妻のほうは?」 「娘の香は、これはあくまで彼女の言い分だが、レストランの予約時間である七時までホテルの中をぶらぶらしていた、と」 「水絵は」 「七時になるまでホテル一階のコーヒーラウンジでお茶を飲んでいたと言っている。ただし、トイレで席をはずしたことはあると」 「トイレね」  氷室が首をひねった。 「それもいちおうアリバイの空白にはなりえますね」 「まあな。どれぐらいトイレにいたかとたずねてもハッキリした記憶がないと言われればそれまでだ。ラウンジの従業員も、いちいちそこまでは見ていない」 「それで異常事態発見のいきさつは?」 「香と水絵は、それぞれべつべつにホテル最上階にあるフレンチ・レストランへ行き、そこで周社長がくるのを待っていた」  田丸は「日本が世界に誇る」という形容詞付きで紹介されることが多い、超一流レストランの名前を出した。 「すごいですね」  氷室はちょっと驚いた顔になった。 「会社が傾きかけているというのに、家族で豪勢なディナーですか」 「とても私のような庶民には縁遠いところだがね」  田丸は肩をすくめた。 「そのレストランで、香と水絵は十五分ほど待っていた。社長がそれぐらい人を待たせることはよくあるので、さして気にも留めていなかった。しかし、三十分待ってもこないので、水絵がレストランから部屋へ内線を入れたが返事がない。それで香が十二階の部屋まで直接呼びにいくことになった。けれどもノックをしても応答はない。そこで香はフロント係を呼んで鍵《かぎ》を開けさせたんだ」 「ちょっと待ってください。すると一二一〇号室のキーは周社長しか持っていなかったんですか」 「うん。そのホテルはカード式ではなく、立派なタグの付いた大きなキーを差し込んで開けるタイプになっていて、何人泊まろうが一部屋にひとつしか渡さない決まりになっている。ちなみに一二一〇号室のセミスイートの定員は二名だが、最初から周龍平氏ひとりで泊まる予約になっていた」  田丸の説明に、氷室は黙ってうなずいた。 「さて、フロント係が合鍵を持ってやってきたのが七時四十五分ごろだ。そしてドアを開けたところ、きみがいま見ている写真のような、異様な状況で社長が倒れていた」 「そのときの香さんの反応が知りたいですね」 「さすがに彼女は、ショックで言葉もなく、しばし棒立ちになっていたそうだ。同伴したフロント係は仰天して内線で警備に急報を入れた。その間、香は何を思ったか、ミニバーの上に有料サービス品として置いてあった使い切りカメラに手を伸ばし、封を切った。そして、倒れている父親の姿を何枚か撮影しはじめた。それがこれなんだよ」 「娘としては、どういう心境でそんな行動をとったんでしょう」 「ひとめ見て、父親は殺されていると確信したそうだよ。そして、状況が状況だけに、証拠を残しておかなければと思ったと言っている」 「まるで警察の鑑識係みたいな行動をとったんですね」 「まったくだよ」 「叫んだり、泣いたりはしなかったんですか」 「立ち会っていたホテルの人間によれば、真っ青な顔になっていたけれど、感情の乱れは見せていなかったそうだ。そして、淡々とシャッターを切っていた」 「それもすごい話ですね」 「フロント係は、使い切りカメラのフラッシュが光るたびに、この人はほんとうに実の娘なんだろうかと訝《いぶか》しんだという」 「父親の身体にすがったりもしなかったんですか」 「警察と救急車がくるまで、さわりもしなかったそうだよ。そして、駆けつけた救急隊員によって、周社長がまだ息があると知らされても、ほとんど感情を面《おもて》に出さずに、父親が担架で運ばれていくのを見守っていたそうだ」 「あまりにも精神的なショックが大きい場合、無表情になって冷静すぎるように見受けられる場合がありますが……それにしても話を聞くかぎりでは、ノーマルな行動とは言い難いですね」 「だから、実の娘でありながら疑われているんだよ」 「ところで、ちょっと気になるんですが」  氷室は、写真に写し出された将棋盤を指さした。 「将棋の駒《こま》は、たしかぜんぶで四十枚でしたよね」  氷室は自分で指を折って確認した。 「片方の陣地で、王様と飛車、角が一枚ずつ。金、銀、桂、香が二枚ずつ。そして歩が九枚で計二十枚。敵味方合わせて四十枚。でも、将棋盤の上にはたった一枚しか載っていませんよ。駒台にも二枚だけです」 「きみの注意力はじつに見上げたもんだな、氷室君。まさに今回の現場の謎《なぞ》はそこにあるのだよ」  田丸は、氷室の手にした写真を指さして言った。 「将棋盤の上には王様が一枚だけ。それから周社長が座っていたと思われる側の駒台に金が二枚。そして両眼に嵌《は》め込まれた二枚の龍王——つまり飛車だな。現場には、その五枚の駒しか見当たらないのだ。床にこぼれ落ちてもいないんだ」 「すると、残り三十五枚の駒が消えたというんですか」 「ああ」 「周社長と将棋を指していた九条が、ケンカのさいに駒を投げつけたということは?」 「それはないと言っている」  田丸は首を横に振って否定した。 「何者かに襲われて意識不明に陥る直前まで、周社長は常務の九条宏と将棋を指していた。九条の証言によれば、ただでさえ自分は弱いのに、ネチネチと文句を言われっぱなしで感情的になり、途中で勝負は中断した、とのことだ。しかし、将棋の駒をつかんで投げつけたりはしなかった、と。だから現場には四十枚の駒が残っていて当然だという」 「九条が部屋を出たあと、社長が駒を片づけたとは考えられないんですか」 「いや、彼が病院に運ばれたあと、警察のほうでも部屋を捜索したが、駒を入れる駒袋は空っぽだった。事前に部下に運ばせてあった将棋盤セットのほかに部屋に残っていた私物は、着替えの下着とポロシャツなどの入った小さなバッグと、九条が提出した『龍王伝説』の企画資料の入った書類かばんが残されていただけだ。それらの荷物も家族立ち会いのもとで点検したが、どこからも駒は見つからなかった」 「この将棋駒が、骨董《こつとう》的価値のあるものという可能性は?」 「いいや」  田丸警部は、また首を左右に振った。 「最高級の材質で作られた高価な駒ではあるけれど、お金を張り込めば町の囲碁将棋の店で普通に買えるもので、決して希少価値がある代物ではない」 「仮に骨董的な価値があっても、一《ひと》揃そろいないと意味ありませんしね」 「そうなんだよ。しかしね、氷室君、奇妙なことに、消えた三十五枚の駒よりも残された駒のほうに重要な価値があったんだな」 「というと?」 「周社長の両眼に嵌め込まれていた龍王の駒の側面に、暗号めいた数字の羅列がペンで書き連ねてあるのが発見されたのだ。数字の癖から見て、おそらく周社長自身が書き込んだものだろうと思われるが」 「数字の羅列?」 「将棋の駒には厚みがあるだろう。その側面をぐるりと取り囲む形で、アルファベットまじりの数字がズラーッと並んでいるのだ。……ほら、この写真だよ」  そう言って、田丸は新たな写真を取り出した。  それは二枚の龍王——つまり飛車の駒を一枚ずつクローズアップで撮った、警視庁の鑑識課撮影による写真で、眼球を傷つけたときの出血で汚れた駒の側面に、米粒ほどの小さな数字がびっしりと書き込まれていた。 「その数字を抜き出したものがこれだよ」  田丸は、つぎに数字をタイプアウトした紙を氷室に差し出した。 [#ここからゴシック体] 【龍王(飛車)A】  53637374756555565767773334353637/R2 【龍王(飛車)B】  63748596867666566465672334353627161514/L1 [#ここでゴシック体終わり] 「しかも、あとで三人の事情聴取をしてわかったことなんだが」  田丸が言った。 「事件の三日前、周社長は会社のそばの中華料理店で、妻と娘と九条の三人と会食をし、こんなことを言っていたそうなんだよ。『私もいざというときのために、遺言状を作って金庫に入れてある。その開け方は二匹の龍が知っている』とね」 [#改ページ]    5 石庭の寺にて[#「5 石庭の寺にて」はゴシック体] 「それで、当事者の人たちはいつ京都にこられるんですか」  アシスタントの川井舞に小声できかれて、石庭にぼんやり目を向けていた氷室は、ハッと我に返った。  田丸警部が京都までやってきてから数日経った週末の土曜日、氷室と舞は、金閣寺《きんかくじ》と仁和寺《にんなじ》の中間に位置する、石庭で有名な竜安寺《りようあんじ》を訪れていた。  コマーシャルなどにもたびたび登場して有名な、十五個の石を置いた長方形の石庭は、夏の日射しを浴びて白く輝き、そのまばゆさに目を細めていなければならないほどだっった。氷室たちが腰を下ろしている濡《ぬ》れ縁《えん》は日陰になっていたが、うるさいほどの蝉《せみ》時雨《しぐれ》がいやでも暑さをかき立てた。  春や秋は修学旅行の中高生たちでいっぱいになるこの寺も、七月に入ると制服姿の子供たちは少なくなる。 「昨日、香さんから電話があってね」  うちわで胸元に風を送っている舞に向かって、氷室は言った。 「明日、日曜の二時すぎに京都駅に着く新幹線でくるということだ」 「ひとりじゃなくて、三人でこられるんですって?」 「そうなんだよ。彼女が一方的に探偵役のような立場で記者会見をやったことに対して、九条常務も水絵夫人も激怒して、香さんひとりで氷室想介には会わせないという話になってね。けっきょく三人がいっしょに、ぼくのところへくることになった」 「同じ新幹線で、ですか」 「同じ列車だけれど、席はバラバラにとって参ります、と香さんは言っていたよ。さすがに京都駅からウチのオフィスまではいっしょのタクシーでくるんだろうけど」  氷室は苦笑を浮かべた。 「それぞれがほかのふたりに対して不信感を募らせるという構図だから、感情的なしこりは修復不能だろうね」 「周社長の容態はどうなんですか」  舞の問いに、氷室は黙って首を横に振った。 「まだ意識は戻らないんですね」 「『まだ戻らない』というのは正確じゃないね。医学的にみて、意識を取り戻すことはもはや不可能だそうだ。ただし、回復の見込みなしという情報を、関係者にまだ伝えないよう、警察が病院側に要請している。その狙《ねら》いは舞にもわかるね」 「社長は犯人を見ていたから……」 「そういうことだ」  氷室は大きくうなずいた。 「周社長を襲った犯人は、まちがいなく彼の殺害を狙って何度も何度も社長の頭を将棋盤の角に打ちつけた。いったん襲ってしまった以上は、完全に殺してしまわなければ自分の犯行を証言されてしまう。しかし、社長は死ななかった。頭蓋骨《ずがいこつ》陥没骨折を伴う脳挫傷《のうざしよう》で意識不明の重態に陥り、いまもなお危篤状態がつづいてはいるが、死んでいない。こういう状態の犯人の心理は、舞もわかるね」 「復活を恐れていますよね。医学的なレベルを超越した奇跡が起こって、周社長が意識を取り戻す可能性に怯《おび》えている」 「まったくそのとおりだと思うね。殺人者は被害者の亡霊に怯え、悪夢にうなされることがある。でも、こんどの場合、犯人が恐れているのは幽霊ではなくて、奇跡だ。だからこそ、警察は社長のダメージが回復不能である事実を伏せておくように病院側に要請している。さらに社長の身の安全を考慮して、二十四時間監視状態におかれる集中治療室に入れたままで、妻や娘との面会も、医師立ち会いのもと、時間も回数も限定して行なわれている」 「容疑者三人の中に真犯人がいた場合、社長が集中治療室に隔離されている状態は、ますます不安を募らせるものでしょうね」 「いつ周社長が意識を取り戻し、犯人を名指しするかわからないという恐怖は、ひょっとすると人を殺したとき以上のものかもしれない。だからぼくとしても、これは切り札に使えると思う」 「切り札って?」 「容疑者を土壇場まで追いつめたとき、社長の意識が蘇《よみがえ》ったと思わせる情報を与えるんだ。ウソは感心しないけれど、これは許されるテクニックだと思う。それが自白の最後の決め手になるんじゃないかと。ただし、伝家の宝刀を抜くタイミングはむずかしいけれどね」 「それで、先生は……」  氷室の額に汗が浮かんでいるのを見た舞は、自分の胸元をあおいでいたうちわを彼に向けて、ぱたぱたとあおいだ。そして、話をつづけた。 「こんどの事件について、どういうふうにお考えなんですか」 「犯人は誰か、ということかい?」 「それと、不思議な現場の状況をどう解釈されているのか」  舞はクリッとした大きな瞳《ひとみ》で、氷室を見つめた。  日焼けした肌の舞は、夏がよく似合う。きょうはアースカラーのタンクトップとミニスカートで、トースト色をした健康的な四肢が太陽に輝いていた。 「田丸警部から聞いたところでは、三人三様の動機がある」  うちわで送られる風に、前髪をふわふわ浮かせながら氷室は言った。 「九条宏常務は、事件直前に周社長から激しく罵倒《ばとう》されていたという、きわめて直接的な動機がある。社長は九条氏を、ひとり娘の花婿候補として考えていた。それだけにかなり厳しい目で九条氏をチェックしていたようだ。つまり、大きな期待を寄せていたぶん、失望したときの怒りも大きく、叱責《しつせき》のしかたも激しくなった。そのことに九条常務がカッとなって……という構図が考えられる。  つぎに後妻の水絵さんは、結婚しても子供を作ろうとしない社長の態度に不信感を抱き、妻としていつ捨てられるかわからない不安を抱えていた。娘の香さんとの確執もある。また、もしも九条氏と香さんが結婚してしまったら、周社長の財産は何もかもそのふたりに奪われてしまうと懸念していたかもしれない。  一方で香さんは、ひとり娘の自分を政略結婚の道具としてしかみない父親にひどい不満を持っていた。彼女は九条氏と結婚する気はまったくないようだからね。とにかく、その美貌《びぼう》からは想像できないほど気性が激しい彼女がいったん感情を爆発させたら、たとえ父親に対しても、どんな暴力をふるうかわからない、と証言する知人の声もある」 「それぞれの動機はわかるんですけど、犯人は、なぜ社長の目に将棋の駒《こま》なんかを嵌《は》め込んだんでしょう」 「社長の目を見たくなかったからかもしれない」 「目を見たくなかった?」 「いや、見られたくなかった、と表現したほうが当たっているかな。意識を失った周龍平氏は、半開きの目の状態であおむけに倒れていた。その虚《うつ》ろな目で見つめられているのが怖かったんだよ。たとえ社長は死んでしまったと思っていてもね。だから目をふさぐという行動に駆り立てられた。田丸警部によれば、周社長の眼球は双方ともひどく傷ついていたそうだが、そのへんにも犯人の心理が表われている気がする」 「駒から指紋は検出されたんですか?」 「周社長と九条常務の指紋が出ている。ただ、将棋を指していたら当然対局者の指紋は駒に付くから、それだけで九条氏を犯人だと断定はできない。ほかの誰かが、指紋が付かないように駒の角を持って扱ったかもしれないしね」 「でも、倒れた社長の目が怖ければ、すぐに部屋から逃げ出せばよかったのに」 「犯人は周社長を倒したあとも、その場に居残って何かをしなければならなかったのかもしれないよ。その作業中、自分を見ているような半開きの視線が耐えられなかった」 「作業って?」 「たとえば、三十五枚の将棋駒を持ち出す作業だ」 「う〜ん」  舞は氷室の顔をあおぐ手を休めて、考え込んだ表情になった。 「私はちょっと納得できないです。駒は心理的な目隠しだったという先生の考えに」 「どういうところが?」 「将棋の駒はぜんぶで四十枚もあるでしょう。その中から目をふさぐための二枚の駒を選ぶとき、パッとつかんだら、よりによって二枚とも龍王——つまり飛車だった、というのは、確率的にみてもほとんどありえないと思うんです」 「たしかに」 「だとすると、やっぱり犯人は意図的にその二枚を選んで周さんの目に嵌め込んだと思うんです」 「意識して飛車という駒を選んだというわけだね」 「というよりも、龍王です」  舞は、飛車を裏返しにしたときの名称のほうを口にした。 「社長の名前は周龍平。龍の文字が入っていますよね。会社の名前も『龍王』。しかも龍をテーマにしたゲームソフトで会社を建て直そうとしていた。龍、龍、龍——何から何まで龍づくしですよ。そして、意識不明の社長の両眼に龍王の駒」 「それはぼくも気になっている」 「しかも、龍王の駒には二枚とも暗号のような数字が書き込まれていたわけでしょう。その点から考えても、犯人がその二枚を意識的に選んだことは間違いないと思います。しかも、二匹の龍が遺言状の入った金庫の開け方を知っている、というようなことを、周社長は事件の数日前に、三人にほのめかしていたんですよね。それって、ようするに金庫のダイヤルの数字を意味しているわけでしょう」 「うん」 「だから、その金庫に収められた遺言状の中身をめぐるトラブルが、今回の事件の背景にあると思うんです」  そこで舞は、夏らしい装いの籐《とう》のバッグから一枚の紙を取りだした。氷室想介が「龍の暗号」と呼んだ、例の数字の羅列である。 [#ここからゴシック体] 【龍王(飛車)A】  53637374756555565767773334353637/R2 【龍王(飛車)B】  63748596867666566465672334353627161514/L1 [#ここでゴシック体終わり] 「金庫の開け方は二匹の龍が知っている、という社長の言葉からすれば、二つの駒のスラッシュ《/》のあとに書かれた『R2』『L1』は、『右に二回ダイヤルを回す』『左に一回ダイヤルを回す』というふうに解釈できると思うんですよ」  紙を指さしながら舞はつづけた。 「そして、その前にいっぱい並んでいる数字は、当然、ダイヤルの目盛りを表わしていると考えるべきですよね。ただ、こんな大きなケタの目盛りはありえないから、それをぜんぶ足すとか、何かの計算をして二ケタぐらいの数字が導き出されるようになっていると思います」 「田丸警部たち捜査陣も、舞と同じ考えを持っているよ。たしかに周家の書斎には金庫があるそうだ。その金庫はダイヤルのコンビネーションで開けるようになっていて、右に二回、左に一回、特定の数字を回したら開く方式だという。だから、駒に刻まれた暗号の最後の『R2』『L1』は、舞が推測したとおりの意味だと思う。  ちなみに、その金庫の扉を開けるために必要な数字の組合せは固定されたものではなく、所有者が自分で好きな数字をセットできるそうだ。その組合せを、周社長は暗号化して将棋の駒に書き記しておいた、と解釈するのも当たっているだろう」 「家族は知らないんですか、その番号を」 「水絵さんにも香さんにも、金庫を開ける番号は知らされていない。けれども、どんな数字の組合せにしていようが、もしも警察が本気でそれを開けるつもりになったら、たやすいことなんだ。警視庁にはプロの錠前師もいる。その手にかかれば、金庫のダイヤル番号を探り当てるなど朝飯前だ。それでも開けることができなければ、物理的に破壊してしまえばいい」 「そうですよね」 「だが、周社長がまだ生きており、しかも金庫の中身は個人的な遺言状だ。だから、いまの段階では、警察が強引な手段で遺言状を見るわけにはいかないんだよ」 「でも、この意味ありげな数字って、すごく気になるんです。先生は、何か暗号を解くヒントをつかんでませんか?」 「ぜんぜん」  氷室は首を左右に振った。 「ぼくは精神分析医であって、暗号マニアではないからね」 「でも、周社長というひとりの人間が考えた暗号ですから……」 「だから?」 「彼の性格などから、暗号の法則がわからないでしょうか」 「ムリだね。数字の羅列から、二ケタぐらいのダイヤル番号を導き出せといっても、それは不可能だ」 「数字をアルファベットに置き換えてみたら?」 「それだと文章になってしまうよ」 「ですから、最終的なダイヤル番号をひらがなで表わしているのかもしれないじゃないですか」 「たった九個の数字でかい」 「ええ」 「仮にそうだとしても、ぼくは暗号解読に時間を費やすつもりはないんだよ、舞。いま言ったように、捜査上、どうしても金庫を開ける必要が生じたら、暗号を解くことによってではなく、プロの錠前師が扉を開けてくれるのだから」 「それはそうですけど……」  まだ舞はこだわっていた。 「この長い数字の羅列をよく見ると、0だけがないですよね」 「ん?」  舞に言われて、氷室はもういちど暗号を書いた紙に目を落とした。  たしかに1から9までの数字は、頻度にばらつきはあるものの、すべて使われている。しかし、0は一個も出てきていない。その事実は氷室も見落としていた。 「数字をランダムに並べて暗号を作る場合、0も使っていくのが普通でしょう。それなのに、この暗号には、まるで意識的に除いたみたいに0がひとつも含まれていません。それが何かのヒントにならないでしょうか」 「なるほど、たしかにその着眼点は鋭いかもしれない」 「でしょ?」 「だったら、暗号解読は川井調査員に完全にまかせるよ」 「もー」  舞はぺこんとえくぼをへこませて、怒った表情を作った。 「先生は暗号の世界にぜんぜん興味示してくれないんですね。盛り上がらなくてつまんない」 「悪いね」  氷室はにこっと笑った。 「人の心には興味があるけれど、数字の羅列には興味がないんだ。どうしても暗号解読で盛り上がる話し相手がほしかったら、推理作家の朝比奈耕作氏に電話でもかけたらどうだい」 「いいんですか、先生」 「なにが?」 「私が朝比奈さんと仲良くなっちゃっても」 「べつに、かまわないよ。彼はとても感じのよい男だからね」 「かなり親密になっても?」 「うん」  氷室は平然とうなずいた。 「朝比奈君には草薙葉子《くさなぎようこ》さんというフィアンセがいるんだ。いくら舞が魅力的な女の子でも、彼が浮気をするとは思えない」 「そういう油断がまちがいのもとだったりして」 「いや。ぼくはふたりの人柄を信じているから」 「信じないほうがいいかも」 「悪いけど、ぼくは人を見る目に自信があるんだよ」  舞の突っ込みを軽くいなすと、濡《ぬ》れ縁《えん》に座っていた氷室は腰を上げた。それにあわせて、舞も仕方なさそうな表情で、ため息まじりに立ち上がった。  ちょうどそのとき、中高年の団体ツアーがどっと入ってきて、静寂に満ちていた石庭の周辺が急ににぎやかになった。 「ただねえ、舞、ぼくには気にかかることがふたつあるんだよ」  団体客の間を縫うようにして出口に向かいながら、氷室は言った。 「二枚の龍王に書き込まれた暗号めいた数字が、遺言状の金庫を開ける重要な手がかりならば、犯人はなぜその大切な駒《こま》を周社長の目に嵌《は》め込んでしまったんだろうか。暗号を解いて金庫の扉を開けたければ、まずその駒こそ持ち帰らなければならなかったはずなのに」 「ですから、それじたいが何かのメッセージだと思うんです。たとえば、自分は周社長の遺産分配に不服があるから殺したんだ、とか。財産なんて要らないとか」 「それはヘンだなあ」  氷室は否定的に首を振った。 「そんなメッセージを放ったら、社長を襲撃した犯人像を自ら明かすようなものじゃないか」 「それはそうですけど」 「それに、二枚の龍王にメッセージ性があるなら、それだけを目立たせればいいはずだ。でも、将棋盤の上に王様が一枚、そして駒台には金が二枚だけ置かれて、残り三十五枚の駒は現場から持ち去られているんだ。これはどういう意味なんだろう。暗号が書かれた龍王よりも、もっと大事な駒が、消えた三十五枚の中にあったんだろうか」 「………」  舞は黙った。  そこの部分は、彼女にも仮説が立てられないところだった。 「それからもうひとつ、ぼくにはひっかかっている問題があるんだよ」  下駄箱から自分の靴を取り出して履きながら、氷室は言った。 「事件の三日前、妻と娘と九条常務の三人が周社長と会食したとき、社長は、遺言状の入った金庫の開け方は二匹の龍が知っていると、意味深な表現で語ったそうだ。これは三人が口を揃《そろ》えて証言しているから事実なんだろう。でも、おかしいと思わないか。妻と娘だけならともかく、なぜアカの他人の九条氏がいる席で遺言状のあり場所や、その金庫の開け方について話題にしたんだろう」 「それはひとり娘の花婿候補として、九条さんを家族も同然と思っていたからじゃないんですか」 「そうかな。むしろぼくは、周社長が誰かを試そうとしていたのではないかと考えたいんだが」 「試すって?」 「金庫に保管されている遺言状の中身について、異常な関心を寄せる者がいないかどうかを、だよ。その反応をみるために、思わせぶりな発言をしたのではないだろうか」 「じゃあ、食事の席で話を聞いた三人の誰かが、遺言状を見たくてこっそり金庫を開けようとするんじゃないかと……」 「うん。周龍平氏が語った『二匹の龍』が、愛用している将棋駒の二枚の飛車を指しているとわかれば、そこに秘められた解錠のヒントを見たくなると思わないか。そして、その駒を見て金庫のダイヤルの組合せがわかれば、中を開けて遺言状の文面を見たくなると思わないか」 「………」 「ぼくは、こんな想像をしているんだよ。身近な三人の誰かをひどく疑った周社長が、その人物の信頼度テストを試みようとしたのが裏目に出て、ああいうことになったんじゃないか、とね」  それだけ言うと、靴を履き終えた氷室は、まばゆい夏の日射しの下に出た。そして舞と並んで、鏡容池《きようようち》と呼ばれる広い池のほとりをゆっくり歩いて境内の外に出た。  その間、ふたりは珍しく無言だった。  舞は氷室が口にした「周社長が誰かを試そうとしていた」という言葉に引っかかり、氷室は舞が指摘した「数字の羅列の中に0だけがない」ことを気にしていた。暗号解読には興味がないと言いながら、「なぜ0だけを使わない数字で暗号が構成されているのか」が気になりはじめていたのだ。  それぞれが思索にふけりながらバス停のところまで行くと、折りよく北野白梅町《きたのはくばいちよう》方面へ向かうバスがやってきた。  そのバスに乗り込むとき、氷室はなにげなくバス停の看板に目を向けた。 [#1字下げ]竜安寺前[#「竜安寺前」はゴシック体]  そう書かれてあった。  ほかのときなら意識の片隅にも留めない光景だが、なぜか氷室の目がそこに吸い寄せられた。 (そうか……竜安寺という名前の中にも「龍」がいるんだ)  今回の事件は龍づくしだと舞と話し合っていながら、自分たちがいる寺の名前にも、じつは「龍」の文字が入っていたことに、たったいままで気づかなかった。 「龍」と「竜」——字体が異なっているせいである。  いまはほとんどの本で「竜安寺」と書かれているこの寺も、本来は「龍安寺」である。おなじく有名な京都の寺「天竜寺」も、やはり「天龍寺《てんりゆうじ》」と書かれてきたものが、このごろでは「竜」の表記を用いるケースが多くなっている。しかし、あくまで正式な表記はそれぞれが「龍安寺」であり「天龍寺」である。寺が発行するパンフレットなどでも、基本は「龍」が用いられている。  嵯峨野《さがの》には「滝口寺《たきぐちでら》」というこぢんまりした寺があるが、これも朱印帳などに記す場合の文字づかいは「瀧《ヽ》口寺」になる。  文豪「芥川龍之介」も、出版社によっては「芥川竜之介」と、やさしい文字のほうを用いるケースが増えてきた。たとえば岩波書店では、全集は「龍之介」表記だが、同じ社の岩波文庫のほうでは「竜之介」を使っている。 (そういえば……)  将棋にさほど感心のない氷室も、朝刊で知らず知らずのうちに目になじんでしまっている、ひとつの名称を思い出した。 (読売新聞社が主催する将棋タイトル戦の「竜王戦」は、決して「龍王戦」とは書かないな)  竜王戦は将棋タイトル戦における最高賞金額を誇り、そのタイトルである竜王位は、ある時期から、最も伝統ある名人戦よりも上の位置づけをされるようになった。Jチェスに協力している島朗がその初代竜王位に就き、同じく佐藤康光が第六期の竜王位を獲得している。しかし、そのタイトルを「龍王位」とは表記しない。 「先生、なに見ているんですか。バスが出ちゃいますよ」  舞にうながされ、「竜安寺前」と書かれていたバス停を見つめていた氷室は、あわててバスに飛び乗った。  彼の乗車を待っていたように、すぐにドアが閉まってバスは東へ向けて出発した。  窓越しに遠く去っていく竜安寺を見つめながら、氷室の頭の中で、ふたつの漢字が交互に点滅しはじめていた。 [#1字下げ]「龍」と「竜」[#「「龍」と「竜」」はゴシック体]  そして氷室は、田丸警部に解説されたJチェスという新しい将棋において、その基本コンセプトを語る吉村達也の言葉も思い出していた。 「字のない将棋を作って、多くの人にこの面白いゲームを楽しんでもらおうと思っているんです」  字のない将棋。 「龍」と「竜」。  0のない暗号。  消えた三十五枚の駒《こま》。  それらの要素が、いま見えない糸によってたぐり寄せられ、氷室の明晰《めいせき》なる頭脳の中でひとつに結ばれようとしていた。 [#改ページ]    6 「0」の証明[#「6 「0」の証明」はゴシック体]  竜安寺を訪れたその日の夜、祗園《ぎおん》の南、六道珍皇寺《ろくどうちんこうじ》そばにある自分の部屋に戻った川井舞は、さっそく推理作家の朝比奈耕作に電話をかけていた。例の龍の暗号に関して意見を求めるためである。  すでにマスコミ報道を通して周龍平社長襲撃事件についての概略を知っていた朝比奈に対し、舞は、田丸警部の警視庁におけるポジションも考えて、彼から氷室に伝えられた情報をリレーしてもかまわないと思って、意識不明の周社長の両眼に嵌《は》め込まれた龍王の駒《こま》の話や、消えた三十五枚の将棋駒のいきさつを伝え、そして問題の数字をファックスして返事を待った。  精神分析医とは異なる、推理作家ならではのアプローチから、明快な謎解《なぞと》きが行なわれることを期待していたのだ。  だが、一時間ほどして返ってきた朝比奈の言葉は意外なものだった。 「舞さん、これはちょっと、ぼくの手には負えませんね」 「え……朝比奈さんでも無理ですかあ」  舞は電話口で落胆の声を洩《も》らした。  推理作家というだけでなく、氷室と同様、現実の難事件をいくつも解決してきている朝比奈耕作である。氷室想介と田丸警部のコンビとはまったくノリの違う、朝比奈耕作と志垣警部・和久井刑事のコンビネーションは、斬新《ざんしん》な発想と行動力とで、これまで幾多の犯人との頭脳対決を制してきていた。  だからきっと今回も、氷室や舞が想像もしていなかった切り口で暗号の謎を解いてくれるのでは、と期待していたのに、朝比奈は氷室とほとんど変わらぬコメントでギブアップ宣言をした。 「ぼくはこういう機械的な暗号解読は手がけたことがないんです。とりあえず1から9までの数字をアルファベットかひらがなに置き換えてみようとは思ったんですが、どれもうまくいかなくて……。正直なところ、手のつけようがないんです。せっかくお電話いただいたのに、お役に立てず申し訳ありませんが」 「そうですか……お仕事でお忙しいところを失礼しました」 「いえいえ、忙しいなんて。ぼくの場合は同業者の吉村さんなんかと違って、殺人的スケジュールとは無縁の、いたってのどかなペースですから、ヒマはいくらでもあるんですけどね。ただ、あまりにもこれは手がかりがなさすぎて」  すまなそうに笑う朝比奈の声を聞きながら、舞はがっかりした面持ちで静かに受話器を置いた。  そして改めて数字の羅列に目を向けた。 [#ここからゴシック体] 【龍王(飛車)A】  53637374756555565767773334353637/R2 【龍王(飛車)B】  63748596867666566465672334353627161514/L1 [#ここでゴシック体終わり]  たしかにここから何かの意味を汲《く》み取れと言うほうが無茶《むちや》かもしれない。だが、これが金庫のダイヤルの解錠番号を示している可能性は高いのだ。そして、金庫の目盛りは二ケタの数字である。  つまり、スラッシュ記号の前に長々とつづく一列の数字が、二ケタの数字に変換できればよいのだ。けれども、ちなみに並んだ数字をすべて足してみると「龍王A」のほうは161、「龍王B」のほうは188となって、二ケタしかないダイヤルの目盛りとは解釈できない。第一、そんなかんたんな方法で正解がわかったのでは、暗号としての役割は果たさない。  けれども、周龍平が何かの法則をもって二ケタの数字を表わそうとしていたとしても、その法則を見つけだす手がかりなど、朝比奈が言うとおり、どこにもありそうにない。そして一方では、氷室が指摘したとおり、時間をかけて暗号解読などに取り組まなくても、その必要があれば錠前師があっさりと鍵《かぎ》を開けてしまうのだ。 (なんだか私、ひとりでミステリーごっこをしているみたい)  急に虚《むな》しくなって、舞はその紙を丸めてごみばこに捨てた。こんなものに頭を悩ませていても、事件の真相など見えてくるはずがない、と割り切った。よく考えてみたら、たとえその数字の羅列から金庫の解錠番号を探り当てたとしても、周龍平社長を襲った犯人の特定につながるわけではないのだ。 (どうせ明日、当事者三人と会うんだから、じかに人間観察をするほうが大事かもしれないな)  そう思った舞は、暗号の解読作業を完全にあきらめ、早めに床につくことにした。  だが同じ時刻、皮肉なことに氷室想介は、興味がないとして退けたその数字の羅列を前に、大きな前進を得ていた。  彼もまた舞と同じように、その数字は脇《わき》に置いて、明日に控えた当事者との会談に神経を集中するべきだと考えていた。だが、最後に一度だけ——どうせ何もつかめないとあきらめながら——それぞれの駒に書かれた数字の和を出してみようと電卓を持ち出した。  最初は数字のメモを見ながら足し算をしていったのだが、5がいくつも連続したり、似たような数字の配列の繰り返しがあったりで、どこまで足したのかわからなくなった。そこで氷室は電卓への入力ミスを防ぐために、数字を二個ずつまとめてスラッシュで区切っていった。  鉛筆で斜めの線を足し終えたあと、全体を見渡した氷室の目が輝いた。すべての数字をくっつけていたときにはわからなかった法則性が、数字を二個ずつまとめることによって、突然、鮮やかに浮かび上がってきたのだ。 [#ここからゴシック体] 【龍王(飛車)A】  53/63/73/74/75/65/55/56/57/67/77/33/34/35/36/37/R2 【龍王(飛車)B】  63/74/85/96/86/76/66/56/64/65/67/23/34/35/36/27/16/15/14/L1 [#ここでゴシック体終わり] 「つながっている……」  氷室はつぶやいた。 (これは偶然なのか? いや違う。明らかに何かの規則を持った数字の並び方になっている)  そして氷室は、目立った数字の流れを何組か選ぶと、そこにイエローの蛍光ペンでラインを引いていった。 [#ここからゴシック体] 【龍王(飛車)A】  73/74/75  55/56/57  33/34/35/36/37 【龍王(飛車)B】  96/86/76/66/56  34/35/36  16/15/14 [#ここでゴシック体終わり]  取り出してみた六組の数字のうち、五組までは二ケタの数字がひとつずつ増えていくか、逆に減っていく並び方だが、注目すべきは「96/86/76/66/56」という流れだった。これだけは十の位が減っていっている。  区切り方をひとつずらしてみたらどうなるか。 「9/68/67/66/65/66」  こんどは、一の位の増減に変わるが、しかし、ひとつだけ余る数字が出てしまう。  まだこの段階では氷室には全体像がつかめていなかったが、それまでまるで見当もつかなかった暗号解読の鍵がぼんやりと見えてきたような気がした。 (あとは舞が指摘したように、なぜ0がないのか。その理由を考えていけばよいのかもしれない)  二個ずつ区切った数字の連続性に意味があるならば、70/71/72とか12/11/10といった流れがあってもよさそうなものだが、0はないのだ。 「0がない」  氷室はつぶやいた。そしてもういちど、こんどは目を閉じてつぶやいた。 「0がないんだ」  口に出してみて、しだいにその意味合いがわかってきた。  本来、0は無を意味する。0単体ではそうである。しかし、二ケタ以上の数を表わすとき、0は位取りを示す役割を果たす。9のつぎが10となり、99のつぎが100となる。そういう場合に0という数字が、ケタ数表記上必要となってくるのだ。  ところが二枚の龍王に書き込まれた一連の数字は、二個ずつ括《くく》ってみると、二ケタの整数の順列にも見えるが、そこに0はまったく現れない。  それは偶然なのだろうか?  そうではない、と氷室は思った。 (問題の数列は、二ケタの整数としてみたとき、たしかに法則性のある流れをみせるが、0がまったく混ざっていないのは、じつはそれが位取り表記を必要とする整数の順列ではない証拠ではないだろうか)  氷室の頭脳が回転しはじめた。 (整数の順列ではないのに、二個の数字をペアにして意味のある流れを示すものがあるとすれば……)  答えがちらついた。 (もしかすると座標——X軸とY軸の掛け合わせで位置を表わす座標かもしれない)  そして、周社長が襲われた現場に将棋盤が置かれており、しかも将棋駒に暗号が書き残されていた状況を考え合わせたとき、座標という数学的な名称は、もっとわかりやすい実体を持つものになった。 (そうか、この数字は将棋盤のマス目を指しているんだ!)  無意味な数字の羅列に見えたものが、氷室の頭の中で、突然、わかりやすい記号に変身した。  将棋盤は九×九のマスの中で闘うゲームである。そのマス目に置かれる駒の位置は、「7六歩」または「76歩」のように表わされることを、将棋にさほど詳しくない氷室も知っていた。  横のマスを右側から1、2、3、4……9、そしてタテのマスは原則として漢数字を用いて、上から一、二、三、四……九と番号をふり、ちょうどX座標とY座標のように組み合わせて盤上のマス目の位置を表わすのだ。  したがって将棋盤の右上隅は「1一(11)」、右下隅は「1九(19)」、左上隅は「9一(91)」、左下隅は「9九(99)」、真ん中は「5五(55)」となる。  1から9までのヨコ・タテ座標の組合せだから0などは存在しない。将棋の棋譜には0という数は出てこないのだ。  氷室は紙に定規で九×九のマス目を引いて将棋盤を描き、上辺に右の列から1、2、3……と番号をふり、右辺に上の段から一、二、三……と番号をふった。そして、まずは「龍王A」の数列を、盤面上の駒の配置と解釈し直した。  5三/6三/7三/7四/7五/6五/5五/5六/5七/6七/7七/3三/3四/3五/3六/3七/R2のように、だ。  そして、その座標に該当する盤のマス目を黒く塗りつぶしていった。  できあがった図面を見て、氷室はうなった。二ケタの数字が浮かび上がってきたからである。  同じころ——  深夜になってもベッドに横になったまま寝つかれずにいた舞のところに、東京の朝比奈から電話が入った。ベッドサイドにある時計を見ると、もう一時を回っている。 「夜分遅くにすみません、舞さん。さっきはあまり愛想のない返事をしちゃったものですから、あのままじゃいけないかなと思って、いろいろ考えてみたんですよ」  朝比奈は、夜更けにふさわしい落ち着いた声で言った。 「じつはあのあと、ふと思いついたことがあるんですけど、聞いてもらえますか」 「ええ、もちろんです」  ベッドの上に起きあがった舞は、受話器を片方の耳に当てながら枕元《まくらもと》のライトを明るくして、右手でメモをとる準備をした。朝比奈が何か重要なヒントを探り当てたのは間違いなさそうだった。 「周社長が襲われた現場から三十五枚の将棋駒が消えたとおっしゃいましたね。四十枚ワンセットの駒のうち、三十五枚が消えたと」  朝比奈が切り出した。 「その一方で、周社長の両眼に、飛車の駒が龍王と書かれたほうを表に出して嵌《は》め込まれ、将棋盤の上には王様が一枚、そして駒台に金が二枚載っていた」 「はい、そうです」 「襲撃犯人が、重要な暗号が書かれている二枚の駒だけを持ち去ったならともかく、よりによって、その駒を社長の目に嵌め込んでしまった謎《なぞ》。そして、なぜほかの三十五枚が持ち去られたのかという謎があると舞さんは言われましたけれど、消えた三十五枚と、周社長の目に嵌められた二枚の龍王の存在に埋没して、あまり注意が向けられなかった駒がありますよね。じつは、それこそが事件の真相を見つけだすうえにおいて、重要な役割を果たしているのではないか、と思いはじめたんです」 「というと……」 「盤上に一枚だけ残された王様と、それから駒台に載っていた二枚の金ですよ」 「どうしてですか」 「もしも二枚の龍王を周社長の目に嵌め込むことだけに意味があるなら、残り三十八枚の駒が、そのまま盤上や駒台の上に残っていてよいはずでしょう。事件の前まで、周社長と九条さんという人は、将棋を指していたわけですから」 「ええ」 「逆に、周社長が使っていた将棋の駒|一《ひと》揃そろいが犯人にとって必要なら、すべての駒を持ち去っていたはずです。あるいは、何かのメッセージとして二枚の龍王だけ残す必要があったなら、持ち去るのは三十八枚の駒であって、三十五枚という中途半端な枚数になるはずがない。となると、現場に残された一枚の王様と、二枚の金に特別な意味があるという考え方もできるんじゃないでしょうか」  朝比奈にそう言われて、舞は初めてその中途半端さに気がついた。 「将棋の駒で王様と金だけは、裏側には何も書かれていないという点で、ほかの駒とは異なっているんですよね」  朝比奈は、あまり将棋のことに詳しくなさそうな舞に、ていねいに説明した。飛車の裏側に龍王と書かれているように、将棋は敵陣に入ると、裏返しに成って、その戦闘能力を強化することができる。しかし、王と金だけは裏は空白。つまり、成るという行為ができない。  舞は、吉村達也がプロデュースしているJチェスでも、クイーンとキング、それに金に相当するパンダの駒は「変身」できないとホームページに書かれてあったことを思い出した。  さらに朝比奈はたずねてきた。 「舞さん、将棋盤の上に置かれていた王様は『王将《おうしよう》』でしたか、それとも『玉将《ぎよくしよう》』でしたか?」 「ギョクショウ?」  聞き慣れない言葉に、舞は戸惑った。 「ギョクショウって、何ですか」 「将棋で大将の役割を果たしている駒を、俗に『王様』とか『王将』と言いますけど、じつはよく見るとワンセットの中に王将が二枚あるのではなく、王将が一枚と、玉将が一枚なんです。テンのない『王《おう》』と、王という字にテンを打った『玉《ぎよく》』の二種類があるんです」 「オウとギョク……ですか」 「ええ。先手が玉を持ち、後手が王を持つのが将棋界での慣習らしいんですよ」  それは舞はまったく知らなかった。駒のワンセットの中には、同じ形の王将が二枚あるのだとばかり思っていた。 「盤上に残っていたのは、王将だったのか、玉将だったのか、わかりますか」 「さあ……いま私たちの手元に写真はないんです。田丸警部が持ち帰られましたから。氷室先生もその区別までは気にしてらっしゃらなかったようですし」 「ぜひ調べてみてください」 「はい。でも、王であるのと玉であるのとで、何か大きな違いがあるんでしょうか」 「あります。ただ、それについてはぼくよりも吉村さんにきいたほうがいいですね」 「吉村さんて、Jチェスをプロデュースしている推理作家の?」 「そうです。彼は推理作家であると同時に、将棋の世界にも深く関わっているし、とくに詰将棋の専門家ですしね。詰将棋ってわかりますか、舞さん。新聞や雑誌に載っている、王様を詰ませるパズルですけど」 「ああ、なんかオジサンがやる、クラそ〜な遊びですね」 「あはは」  朝比奈は明るい笑い声をあげた。 「吉村さんはね、その詰将棋の世界では、ちょっと名の知れた存在で、プロ棋士の伊藤果七段ともいっしょに本を出しているほどなんですよ」 「伊藤果……」  どこかで聞いたことがある名前だ、と舞は思った。そして、すぐに思い出した。Jチェスの企画に協力している四人の棋士のひとりである。  周社長は、九条が提案したゲームがJチェスのアイデアを盗用しているとして罵倒《ばとう》し、それが事件当日の大ゲンカの原因になった。そして社長は九条に対し、これは尊敬するプロ棋士に対しても失礼だと言い放ったという。氷室経由で聞かされたそんなエピソードが、舞の頭をよぎった。 「それで、なぜ王と玉の違いにこだわったかと言いますと」  電話の向こうで朝比奈がつづけた。 「詰将棋の場合は『王様を詰ませるゲーム』だと言いながら、じつは王将ではなく玉将の駒《こま》を使うんですよ」 「王ではなく、玉を」 「ええ。しかも詰将棋は、わかりやすく言えば将棋の部分図みたいなものですから、パズルに必要な枚数だけ盤面に置けばいい。指し将棋と違って、よほど超大作の作品を並べるのでないかぎり、詰将棋に使う駒は、せいぜい十枚前後です。ですからね、もしかすると周社長が襲われたのは、九条常務と将棋を指していたときの駒をぜんぶ片づけ、将棋盤にほんのわずかな駒だけを並べて、詰将棋を鑑賞していたときの出来事ではないかという気がしたんですけど」 「詰将棋を並べていたときに、襲われた……」 「ええ」 「それは何を意味するんでしょうか」 「さあ、そこから先は氷室先生におまかせしたほうがいいような気がします」  朝比奈は控えめな口調で言った。 「それから詰将棋に関しては、専門家の吉村さんにきいてみてください。彼はJチェスの総合プロデューサーでもありますしね。なにかよいヒントをもらえるんじゃないでしょうか」  それだけ伝えると朝比奈耕作は、こんな時間に失礼しました、と礼儀正しく挨拶《あいさつ》を述べて、電話を切った。  朝比奈自身、鋭い洞察力の持ち主でありながら、事件の謎解《なぞと》きに関してあまり口数多く語ろうとしなかったのは、すでに氷室想介が手がけている問題であることを意識してだろうと、舞は推測した。おたがいをトップクラスの頭脳探偵と認めあう男どうしの礼儀作法——舞は、朝比奈の簡潔な用件の伝え方に、そういったマナーを感じ取った。  だが、肝心のところから先を詳しく語ってくれなかったため、舞は、詰将棋と事件の真相との関連がよくわからなかった。 (とにかく自分であれこれ考えるよりも、先生にいまの話を伝えよう)  そう判断すると、舞は置いたばかりの受話器にまた手を伸ばした。が、ちょうどそのタイミングで、電話がまた鳴り出した。取ると、まさにそれは氷室想介からだった。 「舞、解けたんだ、龍の暗号が」  いつも冷静な氷室の声に、わずかだが高揚したトーンが混じっていた。 「それだけじゃない、事件の大筋も見えてきたんだよ」  そして氷室は、舞が自分の用件を切り出すヒマも与えず、立てつづけにしゃべった。 「明日、香さんたち一行がやってくる前に、舞に調べておいてもらいたいことがある。事件があったホテルに電話を入れて、事件当日、香さんたちが夜の七時から周社長とともに会食をする予定になっていたレストランに連絡をとってほしい」 「あの有名なレストランに、ですか」 「うん。あくまで一般客としての電話でいいんだが」  暗号解読の説明をしてくれるのかと思ったら、舞にとって、まったく意外な指示が飛んできた。 「レストランにどんなことをきくんですか」 「ディナーの予約をしたいんだが、男性客は絶対にジャケットとネクタイを着用しなければならないのかどうか」 「は?」 「おたくの店では、ポロシャツにスラックスというカジュアルな格好で、フランス料理の夕べを楽しんでもよいかどうか。それをきいてほしいんだよ」 [#改ページ]    7 疑惑のトライアングル[#「7 疑惑のトライアングル」はゴシック体]  京都御所にほど近いビルの三階にある氷室想介カウンセリング・オフィスを訪れた周香、周水絵、九条宏の三人は、硬い表情のままソファに並んで座り、舞が運んできた冷たい麦茶を前に、まだそれには口をつけようともせず、張りつめた緊張感を漂わせていた。  氷室想介は窓際に立ち、ブラインドの隙間《すきま》に人差指を差し入れて、表の道路の様子をしばらく眺め下ろしていたが、そっと指を引き抜くと三人が待ち受けるソファのところへ戻り、向かいの席に腰を下ろした。 「どうでした、下の状況は」  夏らしい麻のジャケットにベージュのワイシャツをノーネクタイで合わせた九条は、日焼けした顔に浮かんだ汗をハンカチでぬぐいながら、氷室にたずねた。 「報道関係者が手配したと思われるハイヤーが三台停まっていますね。さすがにこの暑さですから、表に立っている者はいません。クーラーの効いた車の中で、みなさんがふたたび出てくるのを待っているんでしょう」  この事件に注目した一部のマスコミが東京から追いかけてきて、ビルの前にハイヤーを連ねて陣取っている状況を、氷室は説明した。 「まったく、香さんがマスコミを集めて記者会見なんてよけいなことをするから、こういうややこしいことになるのよ」  涼しげなライトブルーのワンピースを着た水絵は、相変わらず実際の年齢よりも十近くも若くみえた。その彼女が、大人びたグレイのサマースーツを着て年齢以上の落ち着きをみせている香に向かって、うんざりした口調で言った。 「あなたがドタバタと騒がなければ、私たちのプライバシーを世間にさらすようなことはしなくて済んだのに」 「どうして私のせいにするの」  香は、かけていたサングラスをはずし、父親の後妻を睨《にら》んで言い返した。 「私はパパが襲われた事件の真実を知りたいのよ。どんなことがあっても知りたいのよ。その気持ちを訴えただけ」 「人に罪をなすりつけながらね」 「そうじゃなくて、自分の意見を主張しただけよ。それをどう騒ぎ立てようと、テレビ局や週刊誌の勝手でしょ」 「ち・が・い・ま・す」  水絵は、一音一音区切って言った。 「あなたはね、自分のルックスに自信があるから、マスコミを味方につけて自分だけ安全地帯に逃げ込もうとしているの。氷室先生を持ち出したのも、その作戦のひとつ」 「どういうこと」 「自分で認めないんだったら、ぼくが説明してやるよ」  出された麦茶に初めて口をつけてから、九条が言った。 「会社経営者がホテルの一室で襲われたというだけでは、ふつうは大きなニュースになるものじゃない。けれども、被害者のひとり娘が美貌《びぼう》の女子大生で、しかも気が強くて弁が立つとくれば、テレビ的にめちゃくちゃおいしいんだ。わかるね香ちゃん、『おいしい』というニュアンスは」 「………」 「それを知ってか知らずか、きみはテレビカメラの前に積極的に登場して、内輪の人間を犯人扱いして糾弾した。名指しされたひとりは被害者の後妻で、もうひとりは被害者が娘と結婚させようとした男。これだけ役者が揃《そろ》えば、ワイドショーや週刊誌の餌食《えじき》にならないほうがおかしいだろう。きょうの追っかけが、ハイヤー三台だけですんでるのは奇跡的だよ。そして世間の愚かな人間は、父を意識不明に追い込んだ残虐な悪魔を憎む美人の娘、という構図できみに味方する。そこが狙《ねら》いなんだろ」 「それにね、香さん」  ハンドバッグの中から黒い扇子を取り出して顔をあおぎはじめながら、水絵がつけ足した。 「あなたが私たちふたりを犯人扱いするのと同じ理由で、私だって九条さんとあなたのどちらかが、社長を襲った犯人だと思っているのよ。それでも声を大にして訴えたりしなかったのは、社長の立場を考えてのことなの」 「やめてよ。私が犯人になりえるわけないでしょう」 「あら、どうして」 「実の娘なのよ」 「だからこそじゃない」  パチッと音を立てて扇子を閉じ、水絵は鋭い語調で言った。 「血のつながりが濃ければ濃いほど、憎しみも濃密になるものよ。知らないの?」 「おまけにきみは……」  脇《わき》から九条がたたみかけた。 「事件の第一発見者だ」 「だからなんなの」 「第一発見者を怪しめというのは捜査の常道だ。推理ドラマでも、殺人事件の第一発見者が真犯人だったというパターンは掃いて捨てるほどある」 「殺人事件じゃないでしょう! 間違えないでよ、パパは死んでいないんだから」  香は九条を睨みつけた。  怒りをあらわにすると、香の額の両脇に蛇のような血管が浮き上がった。顔立ちが整っているだけに、憤怒の表情はすさまじく映った。 「それより、怪しいという点では九条さんがいちばんなのよ。元気なパパを最後に見ているのは、あなたなんだから。しかも、廊下まで洩れてくるような大声でケンカをしていた」 「一方的に決めつけないでくれ」  事件前までは、結婚相手になる可能性もあった社長の娘に対して、九条宏は露骨に不快そうな態度をとった。 「警察から聞かされているだろう。社長が倒れているのが見つかって大騒ぎになったあとは、ホテルの人間や救急隊、警察など大勢の人間が出入りしたため、ドアノブの指紋は保全されていないと。だから、ぼくが元気な社長を見た最後の人間だなんて証拠はどこにもないんだ」 「でも、パパとものすごい口論をした」 「それは事実だ。認めるよ。でも、口ゲンカだけで、決して手なんか出していない。頭にきたぼくが捨てゼリフを吐いて部屋を出るとき、社長もかなり興奮していたけれど、だけどそのときの社長はケガひとつ負っていない」 「それはあなたの言い分でしょ」 「ぼくが出たあとにきみが入ったかもしれないし、水絵さんが入ったかもしれないんだ。そんなことはないと証明できるのか」 「部屋のキーはパパしか持っていなかったわ」 「馬鹿馬鹿しい」  九条は口もとを歪《ゆが》めて笑った。 「キーなんか必要ないだろう。娘と妻のどちらが部屋をノックしたって、社長は素直に中からドアを開けたはずだ。逆にぼくの場合は、あれだけの大ゲンカをしたんだから、もう一度社長に会おうとしても許してもらえたはずがない。これで明らかじゃないか。犯人は香ちゃんか、さもなければ水絵さんだよ」 「よくもあっさりと自分を除外できるのね」  こんどは水絵が九条を非難した。 「社長がどういう状況で意識不明の重傷を負ったのか、忘れたの? 髪の毛をつかまれて、将棋盤の角に頭をぶつけられたのよ。それも、何度も何度も」 「それで?」 「男の人にしかできないでしょう、そういうことは」 「まいったね」  九条は大げさに吐息を洩《も》らした。 「香ちゃんが怪しいと言ったかと思うと、こんどはぼくしか犯人ではありえないと言う。だけど女には無理な犯行だったとは、警察は少しも言ってないでしょ。先制攻撃にさえ成功したら、ふらついた社長の頭を繰り返し将棋盤に叩《たた》きつけるなんて、あとは女の力でも楽勝だったと思うよ」 「まるで自分が実験済み、みたいな言い方ね」 「そういう皮肉ばかり口にするなら、こっちもハッキリ言わせてもらうけどね、動機からみれば水絵さん、あなたがいちばん容疑濃厚なんだ」  九条は水絵の鼻先に人差指を突きつけた。 「社長と結婚したあなたは、早いところ赤ちゃんを作って、妻の座をもっと堅固なものにしたかった。そうでないと、いつ社長の気が変わって離婚されるかわからないし、ひょっとしたら遺言によって財産をぜんぶ香ちゃんにとられてしまうのではないかと心配だったからね。ところが社長は、きみとの子供を作ることに同意しなかった。そのためあなたは、戸籍上は周龍平の妻・周水絵となっても、不安定な立場は愛人そのままだった。苗字《みようじ》が周に変わったという実感も得られなかったんだ。それを不満に思って……」 「勝手に話を作らないで!」 「もうそのへんにしておきましょう」  内輪の口論がとめどなくエスカレートしそうになったところで、氷室が割って入った。 「きょうの会合は、周社長が襲われた真相について、氷室想介に意見を求めたいという香さんの希望に添って持つことになったものです。ですから、みなさんがおたがいの言い分を主張する場ではなく、私の考えを述べる場だと、そう解釈しているんですが、それでよろしいですね」 「まあ、探偵ごっこをしたいんだったらご勝手に」  九条は突き放した言い方をした。 「ただし、警察ですらまだ結論が出せないものを、遠く離れた京都にいる氷室先生にわかるはずもないと思いますけどね」 「それは私も同意見だわ」  水絵が言った。 「私が京都まできたのは、先生のご意見拝聴のためではなく、これ以上香さんに、自分に都合のいい作り話を言いふらしてもらいたくなかったからなの。いわばお目付役として立ち会っているだけで、主人が襲われた真相を氷室先生に解き明かしていただこうなんて、そんな無理な望みは最初から持っていませんから」  そのときだった。  氷室想介が唐突に切り出した。 「ダイヤルを右に二度回して、目盛りを51に。つづいてダイヤルを左に一度だけ回して目盛りを40に。それで周社長の遺言状を収めた金庫の扉は開きます」  三人があっけにとられた顔をした。       *   *   * 「龍王の駒《こま》に書き込まれた数字の羅列——警察がいくら考えてもわからなかった数字の意味するものは、じつは将棋における駒の位置を記す符号だったんです」  氷室はデスクのところへ行って、将棋駒の入った駒袋と折り畳み式の将棋盤を引き出しから取り出し、それを持って三人の前に戻ってきた。 「周社長が大変に熱を入れておられた将棋に関して、みなさんがどれほどの知識を持っておられるのか知りませんが、九条さんは社長と将棋を指すほどだし、将棋をベースにしたゲームソフトも企画されたわけですから、ひととおりのことはごぞんじですね」 「まあね、腕前はたいしたことありませんが」 「水絵さんはどうです。将棋については」 「まったく」  氷室が何を探り出そうとしているのかを訝《いぶか》しがりながら、水絵は首を左右に振った。 「将棋の『しょ』の字も知りませんし、興味も関心もありません」 「羽生さんのように一般人にも知られる超人気スターも出てきましたが、あの人のこともごぞんじないですか」 「名前は聞いたことがありますし、顔も知っていますけれど、それ以上は」 「なるほど。では、香さんは」 「私は、自分の名前が将棋の駒から付けられたものであることは親から聞かされていました」 「香車の香ですね」 「ええ。けれども将棋で遊んだことは一度もありません」 「将棋好きのお父さんを小さいころから見ていても、影響はなかったと」 「はい」 「ではちょっとテストをさせていただきたいんですが」  氷室は折り畳み式の将棋盤を広げ、駒袋に入っていた四十枚の駒を盤上に出した。 「じつは私も将棋はやらないんですが、この近所にある囲碁・将棋店から特別に道具を拝借してきたんです。周社長愛用の駒ほど高価なものではありませんが、『巻菱湖《まきりようこ》』と呼ばれる書体で字が書かれている点では同じです。さて……」  氷室は駒の山を崩して、そこから三枚を選び出し、表側ではなく裏側を向けて盤の端に並べた。 「裏返しにしたこれら三枚の駒を何と呼ぶのか、そしてそれぞれの表側は何と呼ばれる駒なのか、みなさんはおわかりになりますか」  氷室に言われて、三人が一斉にのぞき込んだ。いずれも「金」という漢字を崩したものが一字だけ彫られていたが、微妙に形態が違っていた。 「ぜんぜん」  と真っ先に首を振ったのが水絵だった。 「私もわかりません」  香も首を振った。  ただひとり、九条宏だけが当然のように正解を言った。 「左から順に成銀《なりぎん》、成桂《なりけい》、成香《なりきよう》ですね。表を返せば、銀、桂、香です」 「おっしゃるとおりですね」  氷室はうなずいて駒を順番に表に直していった。銀将、桂馬、香車と、それぞれ二文字が刻まれた表側が並んだ。 「将棋を知っている九条さんにはすぐに読めましたが、水絵さんや香さんには読み方の見当もつかない特殊な崩し字です。Jチェスをプロデュースした推理作家の吉村達也さんが言っているように、将棋を敬遠させる大きな要因に、駒の裏側の文字が読みづらいという問題があるんです。飛車、角、金、銀といった表側はなんとか読めても、裏返しに成ったときの文字が判読できない。これでは、将棋がせっかく面白いゲームなのに、子供がなじみにくいですよね。そこで吉村さんは『字のない将棋』を考え出した」 「それとこんどの事件と、どんな関係があるんですか」  キュッと語尾を上げる感じで、水絵がたずねた。 「大いに関係があるんですよ。まずは、金庫を開けるダイヤル数字が、51と40だと具体的に断定できた根拠から申し上げましょう。二枚の駒に書かれた意味不明の数列は、じつは将棋盤のマス目の位置を指していました」 「マス目?」  と、九条が問い返す。 「ええ、それぞれの数列を二個ずつまとめ、それが将棋盤上のマス目を特定する座標だと解釈するんです。そして、指定されたマス目を黒く塗りつぶしていくと、こんな図が得られました」  氷室はそこで一枚の紙を取りだして三人に見せた。  見たとたん、三人の口から唸《うな》るようなため息が洩《も》れた。「51」と「40」。その数字が盤上にくっきりと浮かび上がっていたのだ(次頁参照)。 (画像省略) 「じつはけさがた、詰将棋作家としても三十年以上のキャリアを持つ推理作家の吉村達也さんに連絡をとって、いろいろ話を聞いたんですが、詰将棋の世界では、このように将棋の駒を使って数字やイロハなどのカタカナや図形などを浮かび上がらせる『あぶり出し』とか『曲詰《きよくづめ》』 と呼ばれる趣向分野があるそうなんです。それでわかってきました。将棋が好きな周社長は、自分の遺言状が収められた金庫の開け方を、どうやらそういった詰将棋の趣向にヒントを得て、暗号化したらしい、と」 「将棋のマス目で数字を描き出そうとしたのね」 「そうです」 「なんでパパは、そんな回りくどいことをしたんだろう」  娘の香が、独り言のようにつぶやいた。 「将棋をもとにした暗号だったら、最初から私に解けるわけないわ」 「まったくそのとおりですね。香さんのためではなく、九条さんに解かせようとして、その暗号は作られたわけですから」 「なんだって」  当の九条が眉《まゆ》をひそめた。 「ぼくに解かせるために暗号を作った? 社長が?」 「そうです。その狙《ねら》いがあったからこそ、家族でもないあなたが同席した食事の場で、周社長は、遺言状を収めた金庫の開け方は二匹の龍が知っている、などと口走ったのです」 「何のために」 「九条さんの人間性が信頼できるかどうか、それを確かめようとしていたんだと思います」 「私の……人間性」 「そうです。香さんの意向はさておき、男の子がいない周社長は、あなたを世襲の後継者候補としてスカウトした。そして、娘の婿として適格者であるかどうかについて、二つのテストをしたんだと、私は思っています。第一のテストは、あなたが金に目がくらんでしまう男かどうか、です」  がっちりとした九条の肩が、驚きでこわばった。 「社長は娘や妻もいる前で、意識的にあなたに対して遺言状のあり場所をほのめかしました。また聞くところによれば、北京で故宮を訪れたとき、龍をテーマにしたゲームを大ヒットさせたら、自分の全財産を譲ってもよいとすら言われたそうですね。社長はそうした発言を重ねることによって、あなたが金銭欲に踊らされる人間であるかどうかをチェックしようとしていたんだと思います。  将棋を知っているあなたならば『二匹の龍』が二枚の龍王——つまり飛車の駒《こま》を意味すると、すぐわかるだろうと社長は想像した。だから将棋を指している間に、あなたが飛車の駒を意識的に観察し、駒の側面に記された不思議な数列に気づくのではないかと思っていたんです。そして、その数字をメモするか、あるいは駒ごと盗んで暗号解読をひそかに行なうのではないか、とも。事件当日、周社長が将棋を指そうと持ちかけたのは、説教の小道具だけでなく、そういう狙いがあったんです」 「だけどぼくは……」  九条は、考えてもみなかったという顔で首を振った。 「駒の横に数字が書かれていたなんて、まるで気がつかなかった」 「でしょうね。というのも、あなたは第二のテストに失格して、暗号に気づくどころではなかったから」 「第二のテストって、なんですか」 「感情をコントロールできるかどうか、という試験ですよ」  氷室はかすかな笑みを浮かべて九条を見た。 「たぶん周社長は、意図的にあなたを怒らせようとしたんです。あなたが自信満々でプレゼンテーションしたゲームの企画を、Jチェスのアイデア盗用ではないかと指摘し、口を極めて罵《ののし》った。そうした極限の侮辱を浴びせたとき、人間というのは本性が出るものだと社長は考えていたんです」 「………」  九条だけでなく、水絵も香も、氷室の推理を息を呑《の》むようにして聞いていた。 「残念ながら九条さんは、社長から罵倒《ばとう》されて冷静さを失った。そして、大声でケンカをはじめてしまい、飛車の側面に書かれた暗号に気づくゆとりなどまったくなかった。それによって、九条さんがきわめて感情的になりやすいタイプだと判断した社長は、後継者候補としてのあなたに大きな減点を与えたことでしょう。けれども、金に汚い人物であるかどうかというところまでは確かめるに至らなかった」 「それで?」  と、氷室に説明を求めたのは香だった。 「めちゃくちゃ叱《しか》られた九条さんは、カッとなってパパを将棋盤に……」 「いや、それは違います」  氷室の否定に、香は眉をひそめた。 「ちがう? 九条さんがパパを殺そうとしたんじゃないの?」 「ええ。九条さんは周社長と怒鳴りあいの大ゲンカをしたあと、こんな会社なんか辞めてやると怒鳴って部屋を飛び出し、会社に戻って私物の整理をはじめました。本気で辞めるつもりになっていたからです。そうですね、九条さん」 「ああ、そうです」 「そしてそのころ、一二一〇号室では事件が起こっていたんです」  氷室の言葉に、三人全員が目を大きく見開いた。 [#改ページ]    8 龍王は語る[#「8 龍王は語る」はゴシック体] 「問題は、消えた三十五枚の駒でした」  氷室は、ゆうべアシスタントの舞が朝比奈耕作から聞かされた新しい着想と、けさ吉村達也と話し合って得た情報を総合して得た最終結論へと入っていった。 「それらの駒は、周社長を襲った犯人によって外部に持ち出されたのは間違いありません。しかし、何のためにでしょう。遺言状を収めた金庫の扉を開ける暗号が書き込まれていたのは二枚の龍王だったのに、その駒は社長の両眼に押し込まれる形で現場に残された。また、一枚の玉将と二枚の金将も将棋盤と駒台に残っている。そして、それ以外の三十五枚が外に持ち出された。それはなぜなのか。  その謎《なぞ》は、私の友人である推理作家の朝比奈耕作氏と、同じく推理作家の吉村達也氏の協力によって、どうやら解決の道筋がついてきたようなんです」  語りながら氷室は、将棋盤の上に山積みとなった四十枚の駒を、まず端のほうに寄せた。そして、その中から一枚の駒をつまみとった。玉将である。王ではなく、玉。  その玉将の駒を三人に向けて示しながら、氷室は言った。 「将棋といえば村田英雄が歌った『王将』がよく知られていますが、じつは一組の駒の中には、王将と玉将が一枚ずつある。私も朝比奈さんから指摘を受けるまで、そのことは知りませんでした。王と玉の区別があるなんてね。そしてこの玉将とは、詰将棋では主役を務める駒なのです。そこから私は、こういうふうに推理を展開してみました。  激高した九条氏が捨てゼリフを吐いて出ていったあと、自らもかなり興奮していた周社長は、気持ちを鎮めるために将棋盤に詰将棋を並べました。詰将棋というものはパズルとして解くのが面白《おもしろ》い一方で、詰ませる手段、つまり答えがわかっていても、その手順の素晴《すば》らしさを鑑賞する場合もあるのだそうです。謎解きと鑑賞——優秀な詰将棋作品はこの二つの要素を兼ね備えているとのことです。まさにミステリー小説と同じようですね。その趣味の世界に浸って、周社長は興奮をさまそうとした」  そこで氷室は、詰将棋の主役である玉将を盤上の左下隅、9九の位置に置いた。三人は、氷室がこれから何をするのか、まだまったくわからないという顔である。 「水絵さん、それから香さん」  玉将を盤の片隅に置いたところで、氷室はふたりの女性に目を向け、唐突な注文を切り出した。 「メモ用紙とサインペンをお貸ししますから、私が申し上げるひとりの人物の名前を書いていただけませんか。その人物の名前とは、文豪芥川リュウノスケです。さあ、どうぞその紙に」  脈絡のない要求に、ますますふたりは訝《いぶか》しげな表情になったが、氷室にうながされてペンをとった。  水絵は「芥川竜之介」と書いた。  香は、「芥川龍之介」と書いた。 「なるほど、ご協力ありがとうございました」  軽くうなずくと、氷室はまた駒《こま》の山を崩して中から二枚の飛車をつまみ上げ、それを裏返しにして龍王の面を出してから、5六と6六の位置に置いた。さらに二枚の金将を選んで、それは盤ではなくテーブルの上に置いた(次頁図面)。 (画像省略) 「さて、大好きな詰将棋で気分転換を図ろうとした周社長は、このような詰将棋作品を盤上に並べました」 「ちょっと待った」  九条がストップをかけた。 「なぜその図面だと特定できるんですか」 「推理の段取りはこうです。あなたと周社長は将棋を指しながら大口論になった。当然、勝負などはそっちのけですね」 「もちろんです」 「社長は、あなたを叱責《しつせき》しながら駒を片づけていましたか」 「いや。それどころじゃなかった」 「ですよね。したがって、九条さんが部屋を飛び出した直後は、将棋盤の上には指し将棋の途中局面が残っていなければなりません。しかし、その状態のままなら、盤面いっぱいに広がった四十枚の駒の中から、犯人が三十五枚だけを選んで持ち去った理由がわからない。ところが、|三十五枚と五枚のふたつのかたまりに分かれていたら《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、その大きなかたまりをごっそり持ち出したという行為に、少しは理由づけができそうなんです。  では、四十枚の駒が三十五対五に分かれるのはどんな場合か。それを朝比奈さんや詰将棋の専門家である吉村さんに聞いたら、こんな見解が返ってきました。周社長は対戦途中の駒をぜんぶ端っこに寄せたうえで、空いたスペースのところに詰将棋を並べていたのではないか。その詰将棋に用いた駒の数が五枚だったのではないか、とね。  駒台に二枚の金が置かれていたならば、それは持駒。そして周社長の両眼に挿入された二枚の龍王と、盤上に残された一枚の玉将だけで構成された超シンプルな詰将棋の図面が並んでいた、というのが吉村さんの推測です」 「でも、それがこの図面だというふうに、どうして具体的に決めつけられるんですか」 「吉村さんによれば、玉と龍王二枚だけで構成された条件で作品価値のある詰将棋は、過去幾万と作られてきた詰将棋の中でもわずか数局しかなく、そのうちの二つが吉村達也氏作なんだそうです。で、二作のうちの一作が持駒金二枚でこの図面。そして、これは、一九九六年度の『将棋世界』詰将棋作品『年間最優秀賞』に輝いている」  氷室は手元のメモに、「初手9八金・同玉・5八龍・8八|銀合《ぎんあい》……」などと書かれた正解手順に目をやったが、そこまでの詳細にはふれなかった。 「ちなみにこの作品は、吉村達也氏が伊藤果氏との共著で出した『王様殺人事件』というミステリー風なタイトルを持った詰将棋作品集にも掲載されています。したがって、周社長がこの作品の存在を以前から知っており、自分の大好きな『龍』をテーマにしたところからも、お気に入りの一作であったことは容易に想像できます。二枚の龍が玉を攻める——そうしたストーリーを持った詰将棋の好作を鑑賞しながら、自分が経営するゲームソフト会社『龍王』の将来の青写真に思いを馳《は》せていたのかもしれません。そこへ犯人がノックをした」  え、という顔で、九条はふたりの女性を見た。そしてふたりの女性は、おたがいを見合った。 「犯人は、社長と九条さんが大ゲンカをしたことを知っていたはずです。廊下まで洩《も》れ聞こえるほどの言い合いだったわけですからね。そして、いまなら社長の身に何かあった場合、九条さんのせいにできるという意識もあった」 「氷室先生」  鋭い声で水絵がさえぎった。 「それは私のことなんですか」 「話を先につづけさせてもらえますか」 「いやです」  水絵はきっぱりと言った。 「あなたはただの精神科のお医者さんでしょう。警察でもないのに、犯人を決めつけるとはどういうことよ」 「水絵さん、私はまだあなたを犯人だと名指しをしていません」 「したも同然じゃない」 「話を最後まで聞いてください」 「いやです。帰るわ、私」 「まあ、待ったらどうですか、奥さん」  と、腰を浮かせかけた水絵を制したのは、九条だった。 「氷室先生の話はなかなか面白い方向へ展開している。みんなでちゃんと最後まで話を聞こうじゃないですか」  自分がとりあえず犯人から除外されたと理解した九条は、余裕の笑みさえ浮かべて水絵に、そして香にも話しかけた。 「ねえ、香ちゃん。いったい氷室先生は誰を犯人だと名指しするのか、楽しみだと思わないか」 「………」  香は返事をしなかった。その顔色は真っ青である。 「どうしたんだよ」  九条が目を細めて香を見つめた。 「ぼくや水絵さんをマスコミの前で犯人扱いしておいて、まさかいまになって私が犯人でした、ごめんなさいと言うんじゃないだろうな」 「九条さん、そこまでにしておいてください」  氷室が九条を制して、話のつづきをはじめた。 「周社長が精神統一のためにお気に入りの詰将棋を並べているところへ入ってきた犯人は、常日ごろから周氏に対する潜在的な憎悪を抱えていました。最初は不満という形だったかもしれませんが、その不満が解消されずに増幅され、いつしか憎しみに転じていた。一方で犯人は、九条さん、あなたに対する憎しみも持っていたんです」 「ぼくへの?」 「そうです。あなたを息子代わりの存在として頼ろうという姿勢が周社長に強くあったのを、犯人は決して快く思っていなかった。もしもあなたが周家の一員となったら、財産の大半をあなたに横取りされてしまうという危機感もあった。そんなときに、あなたと社長が大ゲンカをした。これは利用できる事件だった。それが、犯人の正常な判断能力を失わせたんです。一二一〇号室のドアを開けさせた彼女は……」  氷室は「犯人」ではなく、「彼女」という言葉に切り替えた。 「社長に対して、日ごろ心に溜《た》めていた鬱憤《うつぷん》を一気にぶちまけた。しかし社長は、ふたたび将棋盤の前に座ったまま、犯人の興奮を無視して、龍王と玉将だけが並んでいる盤面をじっと見つめていた。  周社長としては、怒りと虚《むな》しさが交錯した気分であったかもしれません。その犯人のまくしたてる言葉の中に、家族の愛情などかけらも感じられなかったからです。九条宏氏を家族の一員として迎え入れるか否かのテストをする場だったはずなのに、まず九条氏が脱落し、しかもほんとうの家族のひとりが、周氏の財産は自分以外の誰にも渡すまいというようなエゴイスティックな主張をまくし立てた。そんな事態に、社長はやるせなさが募り、それが怒りに転じて、演技ではなく本気で怒鳴った。たとえばこんなふうにです。おまえなどは身内とは思わない。もう出ていけ!」  氷室の視線は、後妻の水絵と娘の香の両方に向けられていた。 「そこで彼女はキレた。いきなり周社長の髪の毛をわしづかみにすると、将棋盤の角めがけて思いきり叩《たた》きつけたんです」  ウッという声が洩れた。  香だった。  ハンカチで口もとを押さえ、目尻《めじり》からは涙が伝っている。  水絵はじっとその様子を見つめ、九条は大きな吐息を洩らして天井を仰いだ。 「ぐったりとなってあおむけに倒れた周社長を見て、彼女は初めて自分のやった行為の恐ろしさに気づいたはずです。そして、半開きになって自分を見つめるその視線に震えたはずです。彼女の行為を無言で非難するような、その眼差《まなざ》しに」  嗚咽《おえつ》を洩らす香をじっと見つめながら、氷室は淡々とつづけた。 「ぴくりとも動かない周社長を見て、ああ、殺してしまった、と彼女は思い込みました。だからよけいに半開きの眼差しが怖かった。夢にまで出てきそうな、その目が……。そこで彼女は、盤上にあった二枚の駒《こま》をとっさにつかみ、周社長の目をふさいだんです。個人を特定できる指紋が駒に付かなかったのは、意識的にそれを避けたのか、それとも偶然の結果だったのか、それはわかりません。ともかく彼女は、怨《うら》みがましい周社長の眼差しを封じるために、詰将棋鑑賞のために盤上に並べられていたわずか三枚の駒の中から二枚を選んで、周社長の目に嵌《は》め込んだ」 「それが二枚の龍王だと」 「はい」  氷室は九条に向かってうなずいた。 「ひとかたまりになっていた三十五枚の駒や、駒台に置かれた二枚の金には目がいかなかった。将棋盤の左下にこのように置かれた三枚の駒のうち、同じ文字が描かれた二枚に彼女の注意がいったんです。そしてそれを周社長の目に押し込んだ。もう私のことを見ないで、と」 「それじゃ、彼女は」  香をアゴで示しながら、九条がきいた。 「なぜ三十五枚の駒を持ち帰ったんです」 「遺言状を見たかったからです。衝動的な犯行とはいえ、ここまでやってしまったら、いったい周社長は自分の財産をどのように分配するつもりだったのかを知りたかった。だから彼女は遺言状が収められた金庫の開け方を解く『二匹の龍』を探したかった。しかし、それが将棋の駒を指しているとは見当がついても、具体的にどれかわからなかったから、とっさに三十五枚の駒をまとめて持ち出すことにしたんです」 「なに言ってるんですか、先生」  九条が言い返した。 「氷室先生の推理では、彼女は二枚の龍王を社長の目に押し込んだわけでしょう。その時点で、それが龍だとわかっていなければおかしいじゃないですか」 「いえ、そうだとは思いませんね」  氷室が反論した。 「周社長が『二匹の龍』に解錠のヒントあり、とほのめかしたのは口頭ですよ。決して文章に書き残したのではない。ですから彼女の頭にあったのは『リュウ』という音であって、具体的な文字のイメージではない」 「………」 「彼女はつねにリュウの存在が気になっていた。リュウといえば社長の名前は龍平だし、会社の名前は龍王です。ですから、その文字がすぐに浮かんでもよさそうなものだけれど、必ずしもそうとはかぎらない」 「どうして」 「ドラゴンを表わすリュウという漢字は、二種類使われているからです。画数の多い『龍』と少ない『竜』。ですから、芥川リュウノスケをこちらの字体で書く人は」  氷室は「芥川竜之介」と書いた水絵のメモを取り上げた。 「ドラゴンのリュウも、画数の少ないこっちの竜を思い浮かべたかもしれません」  九条はとっさに水絵を見た。  水絵は、自分で書いたばかりの文豪の名前を、凍りついた眼差しで見つめていた。 「九条さん、どうやらあなたは誤解しているようですね。いま香さんが耐えきれずに泣き出しているのは、自分の犯罪を暴き立てられたからではないんです。父親をひどい目に遭わせた犯人が誰であるかが明確になったから、その悔し泣きなんです」 「水絵さんが……やった……?」  九条は、ぽかんと大きな口を開けた。  水絵は何も答えなかった。 [#改ページ]    9 開かれた扉[#「9 開かれた扉」はゴシック体] 「社長が意味ありげに洩《も》らした『二匹のリュウ』という言葉が気になって仕方なかった水絵さんは」  ついに犯人の具体的な名前を特定した氷室想介はつづけた。 「周囲の人間に、それとなくたずねたかもしれません。社長が『二匹のリュウ』という謎掛《なぞか》けをしたんだけれど、なんのことかしら、と。そこで誰かが教えたんです。将棋ファンの社長ですから、リュウとは将棋の駒のことでしょう。飛車を裏返しにしたときの呼び名ですよ、と。  でも、水絵さんはそのさいに『龍王』というフルネームの呼び方は教えられることがなかった。なぜなら、一般将棋ファンだけでなくプロ棋士でさえも、角をフルネームで『角行』とめったに呼ばないように、龍王も通常『龍』と省略して呼ぶからです。角を裏返した龍馬を『馬』と短く呼ぶようにね。だから将棋を知らない彼女は、金庫の扉を開けるヒントは、『リュウ』と読める一文字の将棋駒にあると思った」 「一文字でリュウ……か」  九条がつぶやいた。 「そうです。龍王ではなく、一文字のリュウです。そこで水絵さんは、リュウの駒のイメージをつかむため、将棋雑誌を見たり、あるいはNHKの将棋番組などを参考に見たかもしれません。ところで、九条さんは『一文字駒』というのをごぞんじですか」 「一文字駒? いや、知りません」 「テレビの将棋番組で大盤解説用に使われる駒は、『飛車』ではなく『飛』、『角行』ではなく『角』というふうに一文字だけ記したものを使います。画面で見やすくするためです。実際に将棋を指している対局者が使っているのは、二文字の駒《こま》ですけれどね。将棋雑誌に掲載される棋譜も一文字駒です。そして、テレビ視聴者は意外に気づかないことなんですが、NHK杯戦などでは対局そのものにも一文字駒が使われているんです。これはテレビカメラで盤を映したときに、より視聴者にわかりやすくするためです」  氷室は吉村達也から仕入れた将棋の知識を披露した。 「そのように、一般将棋ファンが頭に無意識に描く駒のイメージは、二文字ではなく一文字なんです。そしてそのさい飛車の裏側の龍王は、一文字で『竜』。難しい龍ではなく、かんたんなほうの竜を使って表わされます。よろしいですか、これを頭に置いたうえで、この先の話を聞いてください。  日ごろから不安定な妻の座に不満を持ち、先妻の子供である香さんとの確執や、九条さんが家族に加わって財産の取り分が減るかもしれない状況を不安に思っていた水絵さんは、なんとしてでも自分の権利を明確にしておきたかった。だから事件当日、水絵さんは周社長が宿泊しているホテルにある、超一流レストランに予約を入れたんです。そこできちんとした話し合いをするためにね。  ホテルの部屋などで財産問題などを持ち出すと、短気な周社長がどのように爆発するかわからない。だからあなたは物静かなフレンチ・レストランを選んで、香さんにもくるように伝えた。強気で知られる香さんも、そういう場所なら冷静な話し方をせざるをえまい、と計算したからです。家族三人で高級なレストランを予約した背景にはそういう事情があると踏んだんですけれどね」 「あてずっぽうはやめて」  水絵がかすれた声で破った。 「たしかに予約を入れたのは私よ。でも、それは主人に頼まれたから」 「そうは思えませんね」 「どうして」 「定宿《じようやど》にしているホテル最上階にあるレストランが、いかに格式の高い店であるかは、社長はよくごぞんじのはずだった。けれども事件があったとき、社長の服装はラフなポロシャツにスラックスです」  娘の香が、感情を抑えて撮影した現場写真を思い出しながら、氷室は言った。 「警察の調べによれば、ホテルにこもるのに、社長はジャケットもネクタイも用意していなかった。ところが念のために、その格式高きレストランに問い合わせてみますとね、ノーネクタイがファッションとして定着しはじめた昨今の状況に鑑《かんが》みて、ネクタイの着用はお願いしておりませんが、ジャケットはぜひお召しになっていただきたい、という返事でした。初めから周社長自身がセッティングした会食なら、フォーマルな服装を用意していなかったはずがない。そこでぼくは想像したんです。その夜の会食には、周社長は最初から応じるつもりはなかったのだ、と」  氷室の言葉に、水絵は唇を噛《か》んだ。いまにも皮膚が破けて血が噴き出すのではないかと思われるほど強く、前歯で唇を噛んでいた。 「約束の七時になるまでコーヒーラウンジでお茶を飲んでいたあなたは、社長を食事の席になんとか引っ張り出そうとして、何度か一二一〇号室へ向かった。トイレに立ったと警察に説明している時間帯に、あなたは社長の部屋へ行っていたんです。一度ならず、二度もね。最初のときは、社長と九条氏の口論の真っ最中だった。そして二度目に部屋を訪れたとき、すでに九条氏の姿はなく、周社長がひとりで静かに詰将棋を並べていたんです。  その社長に向かって、将来のことについて香さんもまじえて話をしたいから、七時になったらレストランにきてほしいとまた頼んだ。しかし、あくまでも冷たくあしらわれた水絵さんは、おもわずカッとなって、社長の髪をひっつかんだ。すべての罪を九条さんになすりつけることができるかもしれないと思いながら、繰り返し繰り返し将棋盤の角に社長の頭を打ちつけたのです」  九条宏は信じがたいという顔で、社長の後妻を見つめていた。 「ぐったりとなった社長を見て、脈などを確かめることもなく、水絵さんはその死を確信しました。それだけに『死者』の目が怖かった。だから二枚の龍王でふさいだんです。それこそが金庫を開けるカギとなる駒とも知らずにね。画数の少ないほうの『竜』が一文字だけ描かれている駒を頭に浮かべていた水絵さんにとっては、巻菱湖《まきりようこ》という華麗な崩し字の書体で書かれた龍王の駒は、まるで別物のイメージでした」  説明しながら、氷室想介の脳裏には「龍」と「竜」の字画の違いでイメージがまったく異なってしまう名称が次々に浮かんできた。  龍安寺と竜安寺。  天龍寺と天竜寺。  瀧廉太郎と滝廉太郎。  華厳瀧と華厳滝。  そして——  龍王と竜王。 「どこに求める『竜』の駒があるのか、いちいち裏返しをしているヒマもないため、水絵さんは大急ぎで、盤の一カ所に山積みとなっていた三十五枚の駒——吉村達也氏作の簡素な形の詰将棋には必要なかった三十五枚の駒をひとまとめにかき集め、部屋の外に持ち出したんです。そして、内心の興奮を抑えて約束の七時にレストランへ行った。途中で手ぐらいは洗ったでしょうけどね。そして、父親がなかなかこないのを訝《いぶか》しがる香さんの前でも、平然と遅いわねと……」 「ウソよ、ウソ、ウソ、ぜんぶでたらめ!」  水絵は突然大きな声で叫んだ。 「氷室先生は美人の涙にだまされているのよ。たぶらかされているのよ!」  気の強さでは誰にも負けないとされる香が、うつむいたまま、何も言わずただただ涙を流しつづけているのを指さして、水絵は言った。 「きれいな子はトクよね。泣けば男に信じてもらえる。私だって女としての自信はあるけれど、たしかに香さんのきれいさには負けるものね。どうしたって悪役を引き受けるのはこっちだものね」  その反応を見て、氷室はいましかないと思った。  百パーセント回復不能の周龍平の容態についてウソをつくのは、いましかないと。  もちろん抵抗感はある。分野は違えども、同じ医療にたずさわる人間として、ついてはいけない種類のウソだという罪悪感はある。しかし、同時に犯罪を犯しながら徹底的にしらを切ろうとする犯人を、心理的に屈させるのはこのタイミングしかなかった。周社長が意識を取り戻したというウソをつき、水絵を自白に追い込むのは、いまこのチャンスしかないと。  そして氷室が口を開こうとしたとき——  携帯電話の着信音が鳴った。香のバッグからだった。  涙を拭《ぬぐ》いながら香はケータイを取り出し、メールの着信音だとわかって、iモードの画面に受信メールを出した。そして、しばらくその画面に見入っていたが、やがてそれまでよりもっと大粒の涙を流しはじめた。 「どうしたんです、香さん」  心配そうにたずねる氷室に、頬《ほお》を伝う涙をもはや拭おうともせずに、香はiモードの画面を見せた。 「先生、父が、父が……父が意識を取り戻しました」 「ええっ!」  氷室が驚きの声をあげ、九条も腰を浮かせた。 「周社長が?」 「そうです。見てください。病院の高橋先生からメールが……」  香の差し出した画面には、たしかに周龍平が入院している病院の主治医名で短いメールが入っていた。 ≪お父さまが意識を取り戻されました 脳外科 高橋一夫≫[#「≪お父さまが意識を取り戻されました 脳外科 高橋一夫≫」はゴシック体]  メールアドレスを確かめても、病院名と医師名が組み合わせられた本物だった。  冷静な氷室想介でさえ、その展開が信じられなくて言葉が出せなかった。ありえない奇跡が起こったのだ。  そして水絵は……失神した。       *   *   * ≪氷室君、まったく今回のどんでん返しには、さすがのきみも驚いただろう。話を聞かされた私も最初は仰天したよ。周龍平氏が意識を取り戻したと、主治医が香さんにメールを打つとはね≫  三日後——  事件のすべてが解決したことを報告する田丸警部のメールが、氷室にあてて届いた。 ≪しかし、そのおかげで氷室君も、病状に関するウソをついてまで犯人を自白に追い込む役割を自分で担わずにすんだわけだ。すべては香さんの機転に感謝しないといけないな。  香さんは、危篤状態の父親がもうあまり長く保《も》たないことを察知していた。そして自分が京都に行っている間に、父が死ぬような予感がしていたというんだな。血のつながった娘ならではのカンというやつだろう。それで彼女はきみのところへ向かう前日、主治医にこういう依頼をしたのだ。  もしも私が京都へ行っているあいだに父が亡くなったら、すぐにケータイにメールを入れてください。ただし、ストレートな知らせではあまりにつらすぎますから、こういう文章にしてください。お父さまが意識を取り戻されました、と……。  主治医は、それを愛娘《まなむすめ》の哀しくも複雑な心境だと受け止めて、素直にその申し出を受け容《い》れた。ところが香さんは、それを犯人告発の切り札としてスタンバイしていたのだ。氷室君が考えていたのと同じように、だよ。しかも、こう言ってはなんだが、氷室想介がウソをつくよりも数百倍|信憑性《しんぴようせい》のある、主治医からのメールという形でだ。  たまたま、ほんとうにたまたま、きみのオフィスでの犯人追及劇がクライマックスにきたとき、周龍平氏は病院で息を引き取ったのだ。そして、それを報告する主治医のメールが香さんのところに届いた。まさかという社長の復活を聞かされて水絵は失神し、ふたたび正気を取り戻したときには、自分から進んで罪をすべて告白した。  どうかね、氷室君、このタイミングのよさは。これはなにか神の力というか、常識を超えた霊の力みたいなものを感じる出来事じゃないか。  ともあれ、これで周水絵に対する容疑は殺人未遂ではなく、殺人の罪になった。殺意が明白である以上は、傷害致死ではなく、殺人だ。被害者自らが、命と引き換えに事件の真相を告発したともいえる不思議な展開には、さすがの私も、声もないよ。  いや、驚いたといえば、もうひとつある。きみの推理したとおりの数字で金庫は開いたのだが、そこに何が入っていたと思う? 遺言状? なかったよ、そんなものは。見つかったのは一通の手紙だった。その宛名《あてな》は九条宏になっていた。  短い文面だから、原文のまま紹介しておこう。 「九条君、この手紙を読んでいるのは九条君だな。香はもちろんのこと、水絵だって私を裏切るような真似はするはずがない。私の言葉の端々から必死に金庫の開け方を探り、こっそりと扉を開ける者がいるとしたら、きみしかいない。  この手紙をきみが読むことがなければ、私はきみを正式に周家の婿として迎えようと思う。だが、もしもいまきみがこの手紙を読んでいるなら、以下の指示に従いたまえ。黙って辞表を出し、私の前から去りなさい。泥棒猫を飼っておくほど私は心が広くない。たとえ有能なきみがいなくなって会社が傾こうとも、私には最愛の娘と、最愛の妻がいる。香と水絵がいれば、金などなくても私は幸せだ。  水絵は、安全保障として私との子供をほしがっているが、そんなかすがいなどなくとも、私は彼女を捨てたりはしない。まだ若いからわからないだろうが、いずれ水絵も知るはずだ。ベタベタとするだけが恋ではない、ということをな。以上だ」  どうかね、氷室君。捜査本部は、これからこの文章を犯人に見せるつもりだ。きっと泣くだろうな。号泣するだろうな。氷室君、きみもそう思うだろう?≫  田丸警部のメールを読んだ氷室想介は、事件の展開とは直接関係はないけれど、こんどの出来事で強く心に思ったことを返信メールにしたためた。 ≪「龍」と「竜」の差異から事件の真相が明らかになるとは、犯人は予想もしなかったでしょう。ただ、そのことをもって犯人の漢字素養のなさを嗤《わら》うわけにはいきません。  周龍平社長が「龍」の啓示を得たという中国本土では、もはや「龍」の字は使われていません。「竜」でもない。日本の活字にはない簡体字の「※]」です。日本人にも視覚的に意味がとれる繁体字《はんたいじ》の漢字は、もはや香港・台湾方面にしか残っておらず、中国本土では数千年に及ぶ伝統的な漢字が排除され、簡体字という名の略式化された記号のような文字にとって代わられました。  それは教育程度に極端な差のある十数億の人民に、広く理解できる文字を普及させる目的による政策でしたが、いまはそれ以上に、漢字そのものの不利性が顕著になってきました。1バイトで構成されるアルファベットや数字で制御されるコンピューターが世の中の根幹を支配する現代社会では、2バイト文字の漢字は、情報システム構築の深刻な足かせになってきたからです。  それに加えて日本の若者たちの漢字ばなれ。そしてメール&パソコン文化全盛による手書き文字の衰退。行書や草書にいたっては、もはや古典芸能の領域に入ってしまったといってもよいでしょう。  そうした二十一世紀初頭のいま、インドにルーツを発し、中国大陸を経て日本に渡ってきた将棋が、Jチェスのプロジェクト・チームによって漢字からの離脱を試み、新たなステップを踏もうとしている動きは、グローバリズムの中での漢字の限界を示しているのかもしれません≫ [#改ページ]  一枚の写真㈯  廬溝橋の縁台将棋[#「廬溝橋の縁台将棋」はゴシック体]  この作品を執筆中の二〇〇一年夏、日本は歴史教科書問題で揺れていた。それを出した版元は、私が足かけ七年勤め、四年半にわたって書籍編集長を務めていた扶桑社である。これに関しては、稿を改めて書いたほうがよいと思うので、ここで詳しくはふれないが、自分の出身会社といっても、十二年も離れればまったく別の企業になってしまったんだな、という感が強い。  さて、扶桑社の教科書問題は脇《わき》に置くとして、正しい歴史認識とは何か、という問題について考えさせられる場所をご紹介しておこう。左の写真は、日中戦争発端の舞台となった盧溝橋《ろこうきよう》だが、この橋のすぐそばにある中国人民抗日戦争記念館を、一九九六年一月と一九九八年十月の二度にわたって私は訪れた。二回とも現地ガイドをつけた個人旅行であったが、最初のとき、私が行きたいと言ったら、ガイドが案内するのを強烈にしぶった記憶がある。おそらく日本人が見たら気分を害すると思ったのだろう。 (画像省略)  なにしろ、「日軍暴行館」というすさまじい名前を冠された展示コーナーが、その記念館の中にはある。文字どおり、日本軍がいかに暴虐のかぎりを尽くしたかを、写真、遺品、さらには蝋《ろう》人形で作った生体解剖の再現にいたるまで、これでもか、これでもかと並べ立てたものだが、それを見て単純に日本軍の過去に憤ったりせず、写真に添えられたキャプションの内容を、冷静に分析してみることをお勧めする。  なぜここまで言い切れるのか、という根拠なき説明文が散見できるところに、客観的叙述を超えた憎悪の感情が見て取れる。この憎しみのエネルギーは、実際に館内を訪れてこそ体感できるものだが、日本人だ からそれに敏感になってしまうのではなく、逆の立場で、つまり憎悪のエネルギーを投げかける側として、中国国民もまた感情を高ぶらせずにはいられない場なのである。  この記念館の中には「歴史を直視し日中友好永久の平和を祈る」という、日本国内閣総理大臣村山富市の書が、一九九五年五月三日の日付が添えられて飾られているが、この記念館が平和に役立っているとは、とうてい思えない。  ガイドの説明によれば、中国国民の多くは小学生のうちに義務的にこの記念館見学に連れてこられるそうだが、中国の子供たちの心に、日本人に対する憎しみの炎を点火させる以外の何物もここには存在しない。あくまでここは「抗日戦争」記念館であって、平和記念館ではないのである。  さて、この館内に横溢《おういつ》する憎悪のエネルギーを生み出しているものは、表面的には戦争写真がその主たる役割を果たしているように思える。だが、実際は漢字である。 「日軍暴行館」という文字の並びの中で「暴」という漢字のインパクトは強烈である。簡体字に切り替わったのちも、「暴」は画数が多いにもかかわらず、なぜか「暴」のまま簡略化されていない。まるで、この文字の攻撃的なパワーを保全しておこうとでもいうように……。ほかにもキャプションに並べ立てられた数々の漢字が——単語ではなく、漢字そのものが——見る者の感情を高ぶらせる。  抗日戦争記念館を訪れて、改めて感じさせられたのは、中国人にしても日本人にしても、表意文字を操る民族は、漢字の選択方法に感情を託しているということだ。実際、私たち作家はその手法で物語に情緒や緊迫感を添えている。 「歓《よろこ》び」と「悦《よろこ》び」。「怨《うら》み」と「恨み」。「悲しみ」と「哀《かな》しみ」。「楽しみ」と「愉《たの》しみ」など、喜怒哀楽の感情のニュアンスを漢字の使い分けによって表現する。かな文字だけでは、こうはいかない。しかし、だからこそ、漢字を操る民族同士の文字戦争は強烈である。  話を盧溝橋に戻そう。  写真の中央部に凹凸に波打った石畳が見えると思うが、これがかつての盧溝橋をそのまま残した部分である。両側の平坦《へいたん》なところは後世のもの。  手前からゆっくりと橋を歩いて渡ると、向こう側には物売りや食事を売る露店が建ち並び、冬にはないが、秋に行ったときは、老人たちが中国将棋を指している風景が見受けられた。日本式にいうなら縁台将棋である。にこにこしながら、いかにも楽しそうで、こちらがカメラを向けても笑顔で応じてくれた。少なくとも、ここでは抗日戦争記念館のようなギスギスした雰囲気がないだけ救いがあった。  この将棋だが、中国が発祥の地と思っておられる方が多いかもしれないが、実際にはインドである。将棋は漢字のない国で生まれ、漢字のある国に伝わり、そして形を変えながら日本にやってきた。そうした歴史を持つ将棋から、もう一度漢字を取ってしまって、将棋ファンの枠をさらに広げようというのが、私が四人のプロ棋士の方とはじめたJチェスというプロジェクトである。そしてこの作品は、実際に二〇〇一年初頭に行なわれた、Jチェス企画ミーティングの模様を取り入れながら物語が展開する趣向となっている。  Jチェスに興味をお持ちになった方は、ぜひホームページにも遊びにきてみてください。 角川文庫『「北京の龍王」殺人事件』平成13年8月25日初版発行